『違国日記』フレーズというメロディ、フレームというエコー
二人の生きるスピード
瀬田映画における断片的な言葉の広がりは、『違国日記』で新たな領域を切り開いている。ここには風景としての言葉がある。言葉という無形のものをカメラでフレーミングするといったらよいだろうか。槙生と朝によるワクワクするほど楽しい連想ゲームには、車窓に流れていく夜の都会のビル群を背景に連想ゲームのような言葉を紡いでいった、『彼方からの手紙』におけるあのかけがえのないシーンを思い出す。朝にとって槙生の言葉は、不意に現れては自分を助けてくれる黄金のフレーズ=メロディだ。朝もたまにハッとするような言葉を紡ぐ。言葉足らずのフレーズが、思いがけないスピードで空間を、生の瞬間をキャッチしていく。 そう、『違国日記』の少女たちには思いがけないスピード感がある。朝が槙生にシンキングタイムを与えるときの「チッチッチッチ♪」というキュートな身振りの入れ方。話を遮って無造作にギターが奏でられるときの絶妙なタイミング(カッコいい!)。例を挙げていったらキリがない。観客の予想より早く入ってくる、このしなやかで動物的なタイミングこそが瀬田映画の独特のリズムであり、本作ではそれがことごとくキマッている。そして少女たちの前のめりなリズム感の向こう側には、少女時代の槙生と醍醐の間にも確実にあったものが浮かび上がる。少女たちのスピード、大人たちのスピード。『違国日記』は二つの世代の生きるスピード感が初めて交わるところを探し続ける。そこに瀬田なつきの映画作家としての成熟を見る。 「夜明けよ あなたはわたしたちよりも ずっと頑丈でどこまでも泳ぐ舟をつくる わたしはあなたの舟を押して 岸に残る者になろう」(ヤマシタトモコ「違国日記」) 槙生と朝が奏でる人生の二重奏。槙生と朝の探し物が一致する必要はない。『違国日記』は十代の無力さや物事が変化していくスピードを肯定する。朝には自分が想像しているよりもずっと厳しい世界が待っているかもしれない。だから槙生は肩を組む。かつての少女がいまを生きる少女のために、どんな風に手を差し伸ばしてあげられるか。朝という名前は、必ず来る、新しくて美しいものという願いを込めてつけられたという。二人の夜明けは思っているよりもきっと早く訪れる。 文: 宮代大嗣(maplecat-eve) 映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。 『違国日記』 大ヒット上映中 配給:東京テアトル ショウゲート Ⓒ2024 ヤマシタトモコ・祥伝社/「違国日記」製作委員会
宮代大嗣(maplecat-eve)