『違国日記』フレーズというメロディ、フレームというエコー
探し物はなんですか?
「私の姉への怒りや息苦しさをあなたは決して理解できない。私が、あなたの焦りや寂しさを理解できないのと同じように」 中学生の頃からの友人である槙生と醍醐の関係は、朝とえみりの親友関係と鏡のような関係にある。槙生は朝を見ながら少女時代を生き直し、朝は槙生の言葉や仕草に未来に生きる自分の姿を照らし合わせる。槙生と朝の住む家にえみりが訪ねてくるシーン。無邪気に戯れる二人の様子を仕切りドア越しに覗き見る槙生は、まさしく自分の少女時代を重ねているのだろう。槙生と醍醐、槙生と元恋人であり親友の笠町(瀬戸康史)を観察しながら大人の世界を思い描いている朝と同じように。 槙生と朝がお互いのことをよく観察していることが、そのまま過去と未来、大人と子供の間にある壁を突き破っていく。お互いへのフィードバック、ほどけないエコー。しかし笠町が朝に告げるように、大人はある日いきなり大人になるわけではない。瀬田なつきは原作にあるそれぞれのキャラクターの間に生まれる共鳴関係のエッセンスを、時制をいじらずに、“タイムマシーン”のように扱っている。 瀬田映画において乗り物は、過去と未来が同じ瞬間に同居する“タイムマシーン”の役割を果たす。この“タイムマシーン”は時間軸から完全に解き放たれている。バスは動きだす。未来に向かって前進しているのか。過去に向かって退行しているのか。はっきりとしているのは、二人には“探し物”があるということだ。朝は未来を探す。槙生は過去を探す。“探し物”の旅。槙生は単なる思いつきで朝を引き取ったわけではないのだろう。笠町の言うように、きっと普段から何かを考えていた。槙生は過ぎ去った時間にキャッチできなかった何かを探している。 朝にとっての祖母(銀粉蝶)は槙生の“探し物”の手がかりとなる存在だ。祖母がいることで槙生もまた朝と同じく、かつての娘だったことが浮かび上がる。この映画には二人の娘がいる。