塩と桑で郷里に貢献 若尾逸平の養子の申し出を断る 小野金六(上)
生糸相場に参入で、金六の名が一躍有名に 若尾逸平から養子に迎えたいとの要望も
だがそうこうするうち開運の日を迎える。それは明治5(1872)年、20歳ころ。生糸相場に乗り出した時だ。 「この相場こそ、小野金六が立身の初めである。今後生糸がますます上がるということを見透かしたのは、さすが幾多経験の結果だ。すぐ郷里に帰って親戚朋友に泣き付き、少しばかりの金を借り、生糸の買い込みに着手した。すると、5、6年このかた聞かれなかった高値になったから、しめたと一声、売り飛ばして一度に数千円をもうけた」(同) 生糸相場の一戦で巨利を博した金六の名は一気に急浮上する。それを聞きつけた若尾逸平から、「わしには子供がいない。金六を養子に迎えたい」と人を介して婿の話が飛び込んできたのである。 当時飛ぶ鳥を落とす勢いの若尾から養子に懇望されれば、たいていの若者なら二つ返事で「お受け申し上げます」となるところだが、金六はそうはいかない。 「彼は断然拒絶した。『お志はありがたいが、自分はあくまで、独立独歩、世の中へ出たい』というのである。年こそ違え、後には事業の上で若尾と肩を並べるに至った彼だけにさすがにえらい気概を持っていた」(実業之世界社編『財界物故傑物伝』)=敬称略 【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> ■小野金六( 1852-1923 )の横顔 1852(嘉永5)年、山梨県北巨摩郡韮崎に生まれた。父親の伝吉は酒造業と太物(呉服)商を手広く営み、村人の信用は厚かった。1873(明治6)年上京して大手為替商、小野組に入るが、翌年破綻、1877(同10)年米相場で巨利を占め、1880(同13)年第十銀行に入り、同18年甲信鉄道の創立に参画。1887(同20)年九十五銀行取締役、富士製紙を創業、1893(同26)年東京割引銀行頭取、東京市街鉄道富士身延鉄道など数多くの会社の設立、経営にかかわった。1937(大正12)年没。