塩と桑で郷里に貢献 若尾逸平の養子の申し出を断る 小野金六(上)
若尾逸平と同じく甲州(山梨県)出身の小野金六もまた、生糸相場で名を上げた人物の一人でした。その商才は幼い頃から周囲を圧倒し、14歳にして酒造組合の取締を任されていました。また、跡取りのいない若尾からの養子の申し出を断ったエピソードもよく知られています。若き小野の投資人生の始まりを市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。
人間の器量において、雨敬や若尾逸平に勝るとも劣らぬ傑物、小野金六
若尾逸平、雨宮敬次郎、小野金六ーー、この三傑を束ねて俗に甲州財閥三人男と呼ぶ。同じ甲州閥でも小池国三や小林一三は少し時代が新しい。 小野は知名度では雨敬や若尾逸平に一歩譲るにしても人間の器量において、2人に勝るとも劣らぬ傑物であった。1903(明治36)年発行の『当代の実業家人物の解剖』はのっけから小野金六の特異な容貌を俎上に乗せている。 「丈高からず、むしろ低きほうなり。四肢は脂肪的に肥満すれども、運搬に困るほどでもない。容貌は赤味を帯びて温雅優洽(ゆうこう。やさしさがにじみ出る)も婦人に似たり。立ち居振る舞い、軽俊ならず。沈着、質実、壮重の風霜(長い年月)帯びる。思うに智謀ある形相なり」 金六は幼少から覇気に富み、怜悧(れいり)で、近隣の人々を驚かしたいこともしばしば。わずか14歳で酒造組合の取締に選ばれたのは才幹の非凡さを物語る。15歳ころから生糸、塩、米などの商いで信州に出掛けて丁々発止とやるほどの才覚があった。 数ある金六伝では、目から鼻に抜けるとか、一を聞いて十を知るといった天性の俊敏さがキーワードになっている。
塩と桑への果敢な挑戦
出世前の金六の武勇伝として見逃せないのは塩と桑への果敢な挑戦であろう。明治の初め、甲州が飢餓に見舞われた時、金六は鰍沢から富士川をくだり、東海道を十数日かけて塩の本場兵庫県赤穂まで駆けつけて塩を買い付け、清水まで回送し甲州に運んだ。この時地元の人は口々に金六を賛えて、折紙をつけた。 「昔は上杉謙信に世話になったが、金六どんも塩の恩人だ。いまに甲州を背負って立つほどのえらものになるだろう」 もう1つは桑。そのころ甲州東部は養蚕が盛んで桑畑も多かった。それを西部にも養蚕を広めようと桑の苗木を数百本購入した。みずからの所有地はもとより、親戚知人から近隣の村々にまで植付けを勧誘して回った。地元民は渋々金六の勧めに乗ったが、あいにく干ばつに見舞われる。と、金六を非難する声が噴出する。金六は若宮観音に出向いて必死に雨乞いすると一天にわかにかきくもり、干ばつは一気に消えうせた。以来、甲州西部も養蚕地として栄えたという。ただ、これには異説がある。 「桑200本を買入れ、自分の畑一面に植え付けたが、無経験の悲しさ、失敗に失敗を重ね、3年目にはやめてしまった。兄からもらった資金も1銭も残さず損失してしまった」(岩崎錦城著『現代富豪 奮闘成功録』) こちらのほうに真実味があるが、金六が甲州養蚕業に大きな足跡を残したのは事実。ただ成功したとは言えない。なぜなら、金六はほどなく行商人に姿を変え、流浪の身となるからだ。得意先の近江商人から反物を借り、これを売り歩くという小商いではもうけは知れている。