デビュー40周年、中村あゆみ 原点の「明大中野定時制」を振り返る フッくんのソアラでドライブも…芸能人だらけで自由闊達
偶然なった芸能人
高2までの中村の仕事は貴金属などの販売。親からの援助は一切受けず、自活していた。 「あるスナックでたまたま歌ったのがデビューのきっかけ。それを同じ店内で聴いていた音楽プロデューサーの高橋研さんがプロの世界に誘ってくれた」 高橋氏は矢沢永吉(75)やTHE ALFEE、小泉今日子(58)らに楽曲提供したり、作品をプロデュースしたりしていた斯界 の実力者である。 誘われた中村はさぞ喜んだかというと、そうではなかった。プロの歌手になるということにピンと来なかったからだ。また、あらかじめロックを歌うことになっていたものの、中村の好みはジャズ・フュージョン。噛み合わなかった。踏ん切りの付かない中村を高橋氏は1週間にわたって口説いた。 高橋氏は中村の歌唱力や表現力、ハスキーボイスに惹かれたようだ。ハスキーボイスは「和製ジャニス・ジョプリン」と言われた。高橋氏には魅力だっただろう。 このハスキーボイスについては「中村は自分で喉を潰してつくった」という説があるが、中村は「ウソですよ。そんな勿体ないことしない」と歯牙にもかけない。こういったエピソードも出るほど印象的な声なのだ。 高橋氏の説得を受けた中村が「Midnight Kids」でデビューしたのは1984年9月。この曲はスマッシュヒットとなった。 初のビッグヒットは翌1985年4月にリリースした3枚目のシングル「翼の折れたエンジェル」である。CD売上高はアルバム、シングルで通算100万枚を突破し、オリコンの週間チャートは最高4位。いまだYouTubeなどで聴き継がれており、ストリーミングの再生回数は1300万回を軽く超えている。 「めっちゃ売れましたね。寝る間もないって感じ」 デビュー当初は僅か10人程度の観客を前に歌っていたが、2年後の1986年8月には神宮球場(東京)で約3万人を前にワンマンライブに臨んだ。サーファーからヤンキーまで幅広く集まった。中村の歌は若者の共通心理を突いた。 3枚目以降も「ちょっとやそっとじゃCAN'T GET LOVE」(1986年4月)、「ともだち」(1989年4月)などのヒットが続いた。気分が良かったのではないか。 「そうとばかりは言えないんですよ。家から外に一切出られないので。家を出たら騒ぎになっちゃいますから。自由が全くない。お金はありましたけど、使う時間がないんです」 ひょんなことから、強くは望まずに芸能人になった中村だから、余計に不自由を感じたようだ。そんなデビュー当時から40年。 「今思えば短い。50年以上やっている人もいっぱいいますしね(笑)。苦しいこともあった気がしますけど、そんなものはもうすぐに忘れてしまう。人って都合がいいのかな。嫌な記憶は消えてしまう」