700人のSingers「ヒューマンノート」を率いる寺尾仁志
きっかけはゴスペル教室のメンバーとのコンサート
寺尾は、このような活動に至るまで、紆余曲折があった。だが「ある出来事」がきっかけで、自らの方向性が定まったという。 ──音楽とのかかわり教えてください。 寺尾:もともと音楽を聴くのが好きで、とくに小学校5年くらいから洋楽に傾倒していったんです。中学になってからも、洋楽をずっと聴いていて、音楽を紹介する人になりたかった。高校に入って、ギターもやったけど、ぜんぜんダメで。その頃、「歌うまいなあ」とか周りに言われて、ボーカルでライブもやったりして。だから17歳の時には、歌手になりたいと思ってました。 ──歌手を目指したわけですね。 寺尾:はい。大学に行く余裕が家になくて、大学には行ってませんが、21歳の時にあるプロダクションに入ったんです。でも、歌手として鳴かず飛ばずで。これはダメだということで、23歳の時、自分でアカペラグループをつくったんです。そのグループで活動をやりながら、26歳の時に、大西ユカリさん(女性歌手)と出会った。この出会いも大きかった。2000年12月、30歳でようやくメジャーデビュー。歌番組「夜のヒットパレード」で華々しいデビューをしましたが、ぜんぜん売れなかった。 2003年、FM滋賀でパーソナリティーを務め、この時に平義孝と出会う。同時に生活のために「ゴスペル教室」を経営し、10クラス100人以上を指導しながら、寺尾自身も歌手としてずっと模索していたという。 ──歌手としてなかなか売れなかった? 寺尾:周りのアーティストは売れていくのに、自分は曲もつくるんだけど、なかなか売れず、何のために歌ってるのかなって…。人に伝えたい、元気になって欲しいという思いと、一方で、(多くの歌手は)有名になりたい、もてたいとか、いろんな思いが合体していて売れたいという思いがあるわけで。僕も売れたいという思いがあった。35歳を超えたとき、売れたいというだけでは埋まらないものを感じ、何のために音楽があるのか、すごい葛藤があって。それでゴスペル教室のメンバー150人で大きなコンサートをしたんです。一度やってみようと思って。するとその時、150人の顔がどんどん変わっていったんです。終わったあとに、2人からメールが来て。1人はパニック障害の子で、「ほんとに生活の中に歌があってよかった、自分が救われた」って。もう1人は、うつ病の子で「仲間がおってよかった、歌があってよかった」って。そんなメールがきて、僕はそれでパーンと視野が広がって。それが、ヒューマンノートの原型となりました。