後出しの女帝・小池都知事が打ち出した「無痛分娩費用の助成」が図らずも迫る産科の重い選択
■ 小池氏の公約が促す産科医療の再構築 英語では、無痛分娩の一般的な名称として「epidural labor」あるいは「epidural analgesia in labor」が使われている。 「epidural labor」は分娩時の硬膜外麻酔を伴う分娩を意味する。文字通り無痛分娩を意味する「painless labor」という名称もあるが、「epidural labor」の方が一般的なのは、検索される言葉の傾向を示すGoogle Trendのデータを見ると明らかだ。 つまり、「無痛」という効果よりも、「麻酔を使った分娩」というプロセスに焦点が当たっている。手術としての分娩の痛みを和らげ、そのために麻酔科医が伴うという意味合いがあると筆者は理解した。 こうした言葉の使い方を見たとき、「無痛分娩の比率が米国では6割」などと言われるが、これは「手術の一形態としての分娩の痛みが麻酔で緩和されている比率」ととらえる方が自然なのではないか。微妙なニュアンスの違いではあるが、こうとらえるとむしろ当たり前のように思える。 Xのある投稿では「麻酔なしで抜歯することはないのに、なぜ分娩で麻酔なしが受け入れられるのか」という疑問が投げかけられていたが、この疑問は的を射ているように見える。分娩での麻酔も、痛みをなくす治療オプションというのではなく、あくまで痛みに対処する通常の医療の延長線上に考える方が実際に求められていることに近いと思えるからだ。 また、「無痛」に目が行きがちだが、痛みを取る麻酔というよりも、麻酔により不測の事態が起きたときの「事故対応」のための麻酔科医にこそ目を向けることも必要だと考える。 麻酔は無痛分娩だけのものではなく、帝王切開など分娩関連の全体に必要とされることも踏まえると、無痛分娩だけでなく分娩全体を考えて麻酔科医の配置を考える発想が必要なのではないか。 ある麻酔科医は、「海外では、麻酔科医が無痛分娩の麻酔を管理するのが基本であり、産科医が無痛管理をしている状況は特殊と言える。日本でも24時間無痛麻酔ができるような体制を作っていくのが望ましい」という。 分娩に麻酔科医がつくことで、理想的な24時間無痛分娩が広がるとすればそれは望ましい結果だ。麻酔科医を配置するためのコストが賄えないために、自然なことであるはずの麻酔科医の配置が実現できてこなかったのが日本の現状だろう。 日本では麻酔のコストがよく問題になるが、ある麻酔科医は「海外で費用が麻酔の比較的安価なのは、分娩が集約し、マンパワーが少なく済んでいる事情がある。年間1万件の分娩であれば、1日当たり約27分娩となる。その内訳として、無痛分娩率60%、帝王切開率30%、無痛分娩のない経腟分娩10%とした場合、1日当たり無痛分娩は約16件。無痛分娩の開始にかかる時間は、1件当たり麻酔前の評価を含め30~60分。1時間に1件の無痛分娩を行っても、麻酔科医の1日の仕事量として十分。日本では年間分娩数1000で多い部類になり1日当たり約1.6件だ。これは麻酔科医の1日の仕事量としては少なく、どうしても単価を上げざるを得ない」という。 ここまで来ると、これは東京都だけの問題にとどまらなくなる。産科の集約まで考える必要があるが、これは産科だけを再構築しても問題解決にはつながらない可能性もある。 人材不足の問題もある。阪大で麻酔科医不足のための無痛分娩の体制が中止するといった報道があった。麻酔科医を配備する体制を整えようとしても肝心の麻酔科医が足りなければ元も子もない。 高齢化に伴い手術の件数も増え、麻酔科医の需要は切れない。以前に日本の専門医育成の問題を記事にしたが、麻酔科医もその例外ではない。 ◎美容医療の世界に転じる専門医の増加は何を意味しているのか? 形骸化し始めた日本の専門医制度(JBpress) つまり、産科の再構築を考えれば、日本の医療の再構築を考えざるを得ない。 医療関係者からは必ずしも否定的ではなく、「条件付きYES」とする意見がある。ここまで見てきたように、その条件を考えていくと、超えるべきハードルは高い。 26年をめどに出産費用が保険適用になる方針が示されていることも関係してくる。日本では保険診療と自由診療を合わせて適用する混合診療が認められていない。出産費用が保険適用になり、無痛分娩を行うと、無痛分娩の部分が自由診療扱いであれば混合診療になる。 東京都の無痛分娩費用の助成が実現したら、これをきっかけとして、26年までに混合診療を許容するのか、無痛分娩が保険診療として取り込むのかを検討する必要性があるかもしれない。この時には、日本全体を含めた議論に発展する可能性がある。 今回の無痛分娩費用の助成は、東京都のみならず、日本の産科変革、ひいては日本の医療変革への号砲となり得る。ここまで見てきたように、その施策を実現するためには、安心安全な産科を支えるための日本の医療体制の再構築が必要になるのだ。 今回の都知事選で掲げられた無痛分娩費用の助成は、日本の産科および医療界に重い選択を迫ることになる。 【参考文献】 ◎JALA(無痛分娩関連学会・団体連絡協議会) ◎無痛分娩の実態把握及び安全管理体制の構築について ◎わが国の無痛分娩の実態について(2020年度医療施設(静態)調査の結果から) ◎分娩に関する調査公益社団法人日本産婦人科医会 医療安全部会2017.9.10 ◎安全な無痛分娩を提供するために─麻酔科医の立場から─ ◎無痛分娩産科施設の立場から~日本産婦人科医会施設情報からの解析 ◎無痛分娩の安全な提供体制の構築について ◎Shishido E, Arabiki Y, Horiuchi S. Updated Decision Aid Enabling Women to Choose between with or without Epidural Analgesia during Childbirth, and Confirmation of Validity. Int J Environ Res Public Health. 2023 Jun 2;20(11):6042. doi: 10.3390/ijerph20116042. PMID: 37297645; PMCID: PMC10252821. ◎無痛分娩 休止します ◎美容医療の世界に転じる専門医の増加は何を意味しているのか? 形骸化し始めた日本の専門医制度 星 良孝(ほし・よしたか) ステラ・メディックス代表取締役/編集者 獣医師 東京大学農学部獣医学課程を卒業後、日本経済新聞社グループの日経BPにおいて「日経メディカル」「日経バイオテク」「日経ビジネス」の編集者、記者を務めた後、医療ポータルサイト最大手のエムスリーなどを経て、2017年に会社設立。獣医師。 ステラ・メディックス:専門分野特化型のコンテンツ創出を事業として、医療や健康、食品、美容、アニマルヘルスの領域の執筆・編集・審査監修をサポートしている。また、医療情報に関するエビデンスをまとめたSTELLANEWS.LIFEも運営している。 ・@yoshitakahoshi ・ステラチャンネル(YouTube)
星 良孝