「誕生日を祝ってもらった記憶もない家庭で育った」平成ノブシコブシ・徳井 中学からヤングケアラーに「母が精神を病み、家族に対して愛もなかった」
徳井さん:めちゃくちゃ忙しくて記憶にないですが、学校にも行って楽しく過ごしていました。朝5時に起きて部活の朝練に出て、授業を受けて、部活に行って、買い物をして、7時ごろに帰宅して妹と自分のご飯を作る。母はひとりでパンなどを食べていたので…。僕は行きたい高校を目指して、通信教育で夜12時くらいまで勉強していました。 ── ものすごく大変そうに思えますが、ご自身の感覚では、生活面はそれほど困ったという感じではなかったんですね。いっぽうで、母親が変わっていく姿を見るのは、子どもにとっては耐えがたいことではないかと思います。
徳井さん:母が発病したとき、妹は小1でショックを受けたと思います。妹の思い出のなかでは、母は部屋に閉じこもり、たまに暴れているイメージしかないでしょう。僕にはまだ、中1までの母の残像があるからいいほうです。でも、妹を支えなきゃという正義感などは特にありませんでした。僕がこういう話をするうえで、世の中と感覚がズレているなと感じるのは、ここなんです。僕は家族に対して愛がないというか…母も妹も結局は他人、という感覚です。たまたま同居人が精神疾患になったから、介護する。必要だから、料理も家事もする。仕事みたいな感じでした。
── そうなんですか?こちらは、「ヤングケアラーは大変」と先入観を持ってしまいますが、徳井さんの場合は「困っている」わけではなかった…。もしかすると、あまりに大変な状況なので、「感情にふたをした」ことも考えられますね。 徳井さん:たしかに、そうして耐えていた可能性もありますが、いまとなってはもう真相はわからないです。僕自身の人生はたしかに存在していたし、勉強と部活の合間に料理を作って、妹のいろんな準備をする、ただそれだけ。学校は楽しかったし、自分の状況を恥ずかしいとも思いませんでした。だから、芸人になってから舞台で全部しゃべっているわけです。
■専門学校に進学予定も同級生からの思わぬひと言で ── めちゃくちゃ忙しいけど、基本は楽しく過ごしていた、と。そのなかでも、つらかったことは? 徳井さん:父が神戸から戻ってきて退職し、両親の生まれ故郷の北海道に戻ることにしましたが、この中3での転校が一番キツかったです。バレーボール部で第二セッターをやっていて、順調にいけば次は正セッターのはずだったのに、ようやく手に入りそうな活躍の機会を逃すのが悔しくてたまりませんでした。しかも、転校先にはバレーボール部がなかったんです。