「誕生日を祝ってもらった記憶もない家庭で育った」平成ノブシコブシ・徳井 中学からヤングケアラーに「母が精神を病み、家族に対して愛もなかった」
ある日、母が団地の部屋の窓の下に隠れて「隣の窓から、誰かが私のことを見てる」って言うので、ふざけてるのかと思って「ほんとだ、見てる!」って、僕ものってしまったんですよ。そうしたら、その日から母が部屋から一歩も出なくなって…。あれが発病の引き金になったんでしょうね。 ── それを見て、徳井さんはどう感じましたか? 徳井さん:どうもおかしい、と。でも、当時は精神疾患自体がいまのように話題にならなかったし、「気のせいかもしれない、狐にとつりかれるってこういう感じか」と思いました。父親は不在なので、相談もできませんでした。幻覚や幻聴はまだよかったのですが、暴れまくって物を壊しそうなときは困りました。父親に電話したら「さすがにヤバい」と帰ってきました。
── 発病はお父さんの単身赴任がきっかけになりましたが、もともとの家族関係はどんな感じだったのですか? 徳井さん:わかりやすい亭主関白です。食事どきは父親の前にはたくさん料理が並び、子どもはそこそこの量、母は作りながら食べているのか、よくわからない感じでした。会話もあまりなくて、家にいること自体が楽しくなかったです。だから、家族一緒に過ごして楽しい、と言っている人を理解できませんでした。 家族で何かをお祝いする機会がなかったので、「今日は自分の誕生日だ」と嬉しそうに盛り上がっている子を見て、「なんで?」と不思議でした。僕は誕生日を祝ってもらった記憶がなく、めでたいってことがわからなかったんです。大人になって、「そうか、誕生日の人には、おめでとうって言ってあげるもので、そうすると相手が喜ぶんだ」と学びました。とはいっても、小学校に入る前に、家族でディズニーランドやマザー牧場に行った写真が残っているのですが、まったく覚えてないんですよね。
■学校に家事や母の介護…つらさも悲しさも感じなかった ── お母さんが部屋に閉じこもってから、料理も家事も6歳離れた妹の世話も…と大変だったと思います。 徳井さん:幸運にも、と言っていいのかわかりませんが、母親は掃除以外はあまりできない人でした。だから、母が壊れる前から、僕は家事全般していて、料理もしていました。 ── 中学1年生で、学業に家事や介護も。しっかりしていたんですね。ふだんどんな1日を過ごしていたんですか?