弥生時代は壮絶なデスマッチ時代だった? 激闘を繰り広げた「倭国大乱」の真相とは!?
長く続いた縄文時代の遺跡からは、殺傷能力のある武器やそれに対応する防具などは出てきません。つまり1万3千年間続いたと考えられている縄文人の社会は穏やかだったというわけです。しかし弥生時代になると、一挙に人間同士の争いが始まります。弥生時代とはいったいどんな時代だったのでしょうか? ■謎に満ちた「倭国」で起きた壮絶な争い 中国の史書『後漢書』などに「倭国大乱」という記述があります。この「倭国」が日本列島内を指すのか、朝鮮半島南部やそのほかの地域も含めて指すのかは不明ですし、いつ頃何年間続いたのかもさまざまな記述があるのではっきりしませんが、倭人の住む地域で2世紀の後半、約10年から数十年にわたって激しい戦いが続いたようです。 皆さんもご存じの通り、弥生時代になると生活空間を頑丈に守る環濠集落が出現します。そして対人兵器や防具が出土し始めます。 私は素直に、「稲作が始まると富めるところと飢餓に苦しむところで争いが始まったのだろう。水田耕作のための水争いもあっただろう・・・。」と感じていました。ですから弥生時代は初めのころからじわじわと争いが各地で勃発していたとは思っていました。 しかし実際に各地の弥生遺跡や資料館を訪ねているうちに、「そんな生易しいことではなく、自分たちの存亡をかけた、食うか食われるかの大いくさが続く、まるで古代の戦国時代だった!」と感じるようになりました。つまり大いなる覇権争いが始まったのだと考えざるを得なくなりました。 新たな支配者が乗り込んできて村々を屈服させて領土領民を獲得する、国盗り合戦が始まったのだと思います。各地でくすぶっていた騒動が大きくなるのが2世紀後半の「倭国大乱」ではなかったでしょうか。 私には戦国時代のきっかけになる応仁の乱のような権力闘争があったのだろうとしか思えなくなりました。おそらくそれ以前から、弥生時代全般がすでにバトルロイヤルのような様相だったと思います。つまり弥生人は海路陸路を駆使して国盗り活動をしていた、と私は考えるようになりました。 様々な地域から渡来した弥生時代の人々の文化を知るには、遺跡から出土する生活用具や祭祀具、そして墓制の研究が重用です。時代をあまり考慮せずに例を挙げると以下のようになるでしょう。 九州北部の板付遺跡から出土した土器の研究で、縄文女性と渡来系弥生人の男性が一緒に暮らしていたであろうと推測されています。そして吉野ヶ里遺跡に顕著な甕棺墓式の墓制が、地域性として挙げられます。九州に隣接する本州最西端の山口県の弥生・古墳時代の墓は、石棺墓式が目立ちます。 そして何といっても重要なのは、島根県から山陰日本海側を北東に広く分布する「四隅突出型墳丘墓」です。分布は島根県東部の出雲地域から富山県付近まで東西に広がり、南北は広島、岡山の一部内陸にまで広がりを見せます。出雲の王国が突出して広大な地域を支配していたとしか思えませんし、墳墓形式を同じくするということは、埋葬儀式や死後世界観も同じ文化である可能性は極めて高いと思えます。 なぜ四隅突出型墳丘墓が広がったかというと、次世代の前方後円墳型の広がりと同じ理由だと思います。つまり開墾増産のための最新の土木技術や工事用具を求めた同盟国との連携を示す結果だと考えられます。当時重要な物資は金属器で、それは祭祀用の青銅と実用具としての鉄です。 出雲地域の遺跡や遺物から大胆に推理をすれば、良質の砂鉄が手に入ることや海外からの材料の輸入で鉄器の生産にも優れていたであろうこと、青銅器を各地に供給するほど生産できたことが、強大な中心的国家だった理由ではないでしょうか。 古代出雲地域に強大な王国があったことは『記紀』も認めています。その王国は日本海沿いを中心に、北陸にまで広がる四隅突出型墳丘墓文化の連合国家だったのです。しかし『出雲神話』にあるように出雲王国は、天孫族に国を奪われます。これはおそらく3世紀の事でしょうか…。 実力で国を奪いに来た天孫族の軍団は天から山に降りたのではなく、「稲佐の浜(いなさのはま)」という砂浜に上陸します。それは合理的に考えれば何も不思議ではないし、逆に当然のことだといえるでしょうが、「高天原」という天照大神の本拠地が日本海の対岸にあったということを言っちゃっているわけです。 そして出雲は王権を奪われますが、出雲王国の試行錯誤を繰り返して育まれた列島文化は、簒奪した大和王権にも実に大きく影響しています。 このような大きな覇権争いは列島内で繰り返され、それはまさに戦国時代の国盗り物語とよく似た様相だったのではないでしょうか?環濠集落という構造は、戦国期の砦や城と同じ機能と目的を持っています。 この時代が「倭国大乱」の時代で、『魏志倭人伝』によれば女王卑弥呼の登場で乱は一旦収まるとされています。しかし卑弥呼も晩年は霊力が衰えたのか、狗奴国との激しい戦が始まったようで、戦闘時には男王を立てて戦うわけですがこのままでは敵味方お互いに損だということで、再び卑弥呼の宗女を女王に立てるというストーリーですね。 『魏志倭人伝』は弥生末期の様子を見聞録のように伝えるので弥生時代の象徴のように感じられるのかもしれませんが、それは終末期のほんの一部の時代、一地域のことでしかありません。そこに至る数百年間の激動史があったのです。 弥生時代は、一言で済ますわけにはいかないほど激しい時代だったと思われます。簡単に想像するわけにはいかないほど複雑で激しい覇権争いが続いていたようです。 そして登場するのが大和王権には違いないのですが、この王権も東海西部地方の大きな影響を受けて誕生しているように思えてなりません。(詳細は本連載の「工事中に発見された高尾山古墳の謎 東西最古級の古墳から考える“東海勢力”が存在した可能性」をご参照ください) 激動の弥生時代を今後もっと探って見たくなりますね。
柏木 宏之