まだ、何も終わっていない――甲子園が「消えた」夏、それでも戦うことの意味【#コロナとどう暮らす】
斎藤の回想だ。 「まず、これまでのおれの野球人生で、いちばんの試練だという話をした。いちばんの逆境だと。2番目は東日本大震災のとき。3番目は初めての甲子園で20-0で負けたとき。イメージを明確にするためにもあえて、2番目も、3番目も挙げた。そして、身の回りに起きたことは必然だと思えるかどうかが大事なんだぞ、と。ここで逃げるなよ、と。おれもかなり熱くなってたから、かなり強い調子で言ってたと思うよ」 親心としては、最終的に中止になろうとも、それが正式に決まるまではせめて選手に夢を見させてやりたいと思いそうなものだが、斎藤はそうは考えなかった。 「20日までの5日間、練習が死んじゃうじゃない。あんな報道が出たら、モチベーションも下がるんで。それが許せなかった。甲子園がなくなっても、何らかの形で代わりの大会は、あると思ってたから」
東日本大震災の試練
東日本大震災が起きたのは、2011年3月11日のことだった。聖光学院のグラウンドも、ネットを支えるコンクリートの柱がしなるほど揺れた。 ただ、本当の災害はそこからだった。津波によって電源を失った福島第一原子力発電所から放射性物質が大量に放出されたのだ。聖光学院のグラウンドは、福島第一原発の北西、約65キロ地点にある。グラウンド周辺地域は、山が盾となり、また、内陸の風が浜風を押し戻してくれたため放射線量はさほど高くはならなかった。だが、「見えない敵」は、今回のコロナ同様、人々の恐怖心を掻き立てる。予定されていた練習試合はことごとくキャンセルとなり、夏への道は闇に閉ざされかけた。 部長の横山博英(50)はこう思い返す。 「震災のときは、ひとたび動き始めたら、そこから状況が悪くなっていくってことはなかった。遠くに見える光に向かって、少しずつでも歩くことができた。でも今回は、大会自体がどうなるか見えなかったし、今は、その光が完全に消えてしまったわけだから。正直、あのときより苦しいよね」