カーター元米大統領死去、100歳-2002年ノーベル平和賞受賞
カーター氏は今年の米大統領選で民主党候補のハリス副大統領に投票するという、人生最後の望みを果たした。
家業のピーナツ栽培・種子供給業からジョージア州知事に転身したカーター氏は、1976年大統領選に民主党候補として出馬。74年にニクソン第37代大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件で失われた信頼の回復に向けて、誠実さをアピール。現職のフォード大統領に勝利し、第39代大統領に就任した。
イスラエルとエジプトが調印した平和条約「キャンプ・デービッド合意」はカーター氏の代表的な業績で、両国の平和的共存につながったが、イスラエルとパレスチナの紛争を解決するというもう一つの目標は達成できなかった。
カーター政権に大きな影を落としたのは、イランでパーレビ国王を追放しイスラム共和国が樹立された1979年のイラン・ イスラム革命だった。革命指導者の故ホメイニ師が初代最高指導者に就き、同年11月には首都テヘランで革命派の学生が米大使館を占拠し、米国人60人余りが人質となった。80年4月には人質救出のため大使館への軍事攻撃を承認したが、作戦は失敗した。
国内外で危機に見舞われたカーター氏は、再選を目指した80年の大統領選で共和党のロナルド・レーガン候補に大差で敗退。444日間に及んだ大使館占拠事件の人質はレーガン大統領が就任した81年1月20日に解放された。
ボルカー氏起用
一方、カーター氏は在任中に国内の経済問題に悩まされた。就任した77年1月当時5.2%だったインフレ率は79年末までに13.3%に加速。米金融当局のインフレ抑制措置に伴い、住宅ローン金利はほぼ15%に達した。また、エネルギー不足を受けて原油価格が2倍余りに高騰した。
インフレ退治のためにカーター氏が連邦準備制度理事会(FRB)議長に起用した故ポール・ボルカー氏は積極的な金融引き締めを進め、金利は一時20%に到達。こうした政策は最終的に物価抑制につながったものの、カーター氏がレーガン氏に大敗する要因にもなった。