《袴田巌さん無罪確定へ》「今、恐れているのは、僕を犯人にでっち上げた警察ですよ」“ねつ造”証拠と袴田事件の58年
異彩なオーラを放つ人物・袴田巌
ところが、まったく異彩なオーラを放つ人物に出遭った。 「そんな中でひとりぽつんとまったく異なる性格や振る舞いの人がいるとすぐに分かります。袴田さんに会って、ああ、この人は絶対に殺っていないと思った。それは長年、看守をやった経験からたくさんの殺人犯に会って来ましたから、確信に近いものでした。殺っていない人が殺ったことにされて酷い目に遭っているというのは想像を絶する苦しみだと思うのです。それでもあの人は毅然としていた」
10年以上“電化製品とは無縁の生活”を強いられていた
袴田は、1966年に静岡県清水市(当時)の味噌製造業「こがね味噌」の専務一家4人に対する強盗殺人・放火の罪で逮捕され、取り調べでは“自供”。一方で、「壮絶な拷問を受けて自白を強要されていた」と証言し、裁判では一貫して否認を続けた。 その後、静岡地裁は死刑を宣告(1968年)、控訴した東京高裁もこれを棄却(1976年)した。坂本が書類作成のためにヒアリングを申し込んだのは最高裁に上告していたときであった。30歳で逮捕されていた袴田は獄中で14年を過ごし、すでに44歳になっていた。 「収容されていた北舎2階の独居房から、面接用の会議室に連れて来られた袴田さんは、元ボクサーだけあって精悍な顔つきでした。 印象的だったのは、真夏だったので主任が気を利かしてエアコンをつけてくれた際、袴田さんが驚いていたこと。袴田さんはそれまでクーラーを体験したことがなかったのです。拘置されたのが、1966年だから、冷房器具は扇風機があればまだ良いという時代。それ以来、電化製品とは無縁の生活を強いられて来たのです。 私は予算書作成のために『14年の拘置所生活の中で困ったことや要望を教えて下さい』と伝えました」
拘置所に「存在しなかった」“本来は奨励されるべきもの”
袴田から返って来た言葉に坂本は言葉を失った。 「開口一番、『拘置所の蔵書に法律書を入れていただけませんか』と言われたのです。『自分の冤罪を晴らすために今、一生懸命勉強をしていますが、もっともっと学びたいのです。しかし、拘置所には法律の専門書が無いのですね。買えれば良いのですが、私が手にするのは、無罪を信じて飲まず食わずで差し入れをしてくれている兄と姉のお金なのです。申し訳なくてとても使えないのです』と。上申書を書くための難しい言葉も覚えたそうです。 本来であれば法治国家の日本で法の学習は獄の中でも更生のために奨励されるべきです。しかし、拘置所は法律書の貸与をほとんどしないのです。なぜならば、拘置所では所長をはじめとする幹部職員は冤罪など絶対に無いと盲信しているから。愚かなことです。 だから被告人に法律など学ばれては困るのです。毒にも薬にもならない娯楽本しか置いていない。しかし、こんな大切な処遇についてずっと手つかずに来た。それを突きつけられた気がしました」