王貞治をしのいだ唯一の本塁打王「田淵幸一」 “ホームランアーチスト”を育てた三人のコーチング(小林信也)
ホームランアーチストと呼ばれた田淵幸一があの美しいアーチに目覚めたのは法政一高3年の春だと言う。 【写真をみる】「俺を育ててくれたのは…」 田淵幸一の“二の腕”を鍛えた「有名選手」とは?
「茨城県の石岡でキャンプをやった。掘っ立て小屋みたいな宿舎で風邪をひいて寝込んだ。3日目くらいに練習に参加した時、病み上がりで力が入らない。それなのに打球がすごく飛んだ。レフトの後ろに林があってね、そこにバンバン入った。あれ? 力を入れなくても飛ぶぞと。それが俺のホームラン感覚、ホームラン人生の始まりでした」 高校時代は無名の存在。長打力が開花し、注目を浴びるのは法政大学に入ってからだ。しかし、予兆は高校時代からあった。 「とにかく人との出会いに恵まれた」 と田淵が振り返る。 「中学は草野球程度だったけど、高校では甲子園に行きたいと思って、早実か法政か考えていた時、たまたま近所に法政一高のOBがいて紹介された。行ってみたら、松永怜一という怖い監督がいた」 当時の野球部は部員約100人、練習も厳しかった。 「1年生は硬球に全然触れない。何とか硬球に触りたいと思ったらバッティング・キャッチャーをするしかなかった。元々は外野手なんだけど」 硬球に触りたい一心で誰もが嫌がるキャッチャー防具を身に着けた。それで捕手・田淵が誕生した。 「汚いマスクとミットを着けて、座ったり立ったりするのが大変だった。脚がパンパンに張って最初は帰りの電車に乗るのもやっと」 後に田淵は強肩で知られた。通算盗塁阻止率.422は古田敦也、大矢明彦に次ぐ歴代3位。5割を超えたシーズンもある。ところが、 「最初は肩が弱かった。強くしてくれたのが松永監督。夏の暑い時期に個人ノックでセカンドを守らされた。松永さんは三塁のベース上に打つ。それを逆シングルで捕って一塁に投げる。それで肩が強くなった」 高3になると松永は法政一高を離れ、堀越高の監督に就任。だが、田淵が法大に進学した年、法大の監督として再会する。それも田淵の強運だ。高校で実績のない田淵は甲子園出場者の多い法大では冷遇されても仕方がない。素質を知る松永監督だからこそ合宿所に迎え入れ、鍛えてくれた。 「松永の子分だからなあ、なんて随分言われた。だから結果を出すしかなかった」 1年春からリーグ戦に出場。3年春には長嶋茂雄(立教大)が持つ通算本塁打記録8本を更新し、22本まで伸ばした。