冷戦終結後のアジアと日本(1) ウクライナという挫折 :平野健一郎・東大名誉教授
冷戦終結後の30年をどう見るか:ウクライナの衝撃
川島 先生は、冷戦後の30年をどのように見ていらっしゃいますか?現在が「ポスト冷戦」という時期の終わりだという見方もあるようですが。 平野 そういうはっきりした観察が自分にはできません。けれども、ウクライナだけは、本当に今までの歴史は何だったのか。とりわけアジア研究を中心にして、アジアのあり方を考えてきた人間からすると、日本を筆頭にして、戦争の反省に基づいて新しい歴史を作ろうとしてきた中身をまったく無視したような逆行現象なわけです。それで言葉も出なくなってしまうのです。たとえばアジアの現実をある程度踏まえながら、文化の多元性という見方をしようと提案してきた立場からすると、やはりアジアには共通のものと、それぞれの地域や時代の特徴がある多文化性とが重層をなしているところがあります。一言でいえば、これは素晴らしいことだと思うのです。それが、留学生が日本に集まってくる一つの誘因でもあったのではないかと思うのです。
国際文化交流・国際援助の意味
川島 先生は国際文化交流研究の第一人者でもいらっしゃいます。これまで多くの国際交流や国際援助が重ねられながらも、今回のような事態が生じてしまいました。 平野 多少とも国際交流を実践した人間として申し上げると、今の世界情勢の残念なところは、日本の国際交流活動が問題を解決できなかった、穴を埋められなかったからではないかという反省があります。それはロシアの知識人を一部でもいいから友人にできなかったということです。 日本研究をやるロシア人は昔からいるのです。ちょっとユニークな方々なのですが、能力がすごくあって、日本人もやらないような日本研究をやっているような人がいるわけです。そういう人と手を結んでいたら、少しは違ったのではないかと思うのです。ウクライナについて、歴史に逆行するこの動きを予防できなかったというのが、アジア研究をやりながら、国際交流の重要性に気がついたつもりだった自分の反省点です。何も語る言葉がないというのが反省ですね。 また、1989年に日本は世界最大のODA供与国になりました。ですが、当時学会で議論していたことは、国際援助としての国際協力であること、国際援助の目的を明確化する必要があるということを反映したものものであったと思います。なぜ国際援助をするのか。目的の明確化の努力はあったが、その努力はまとまらなかったということでしょうか。 私は、その頃から国際文化論の方向にはっきりと転換しています。私は国際協力とか国際援助を各国の国家政府だけが自国の国益のために仕掛けるような、そういう状態のままに進めたのではまずいのではないかと思います。国家間の競争の場としてではなくて、それぞれの社会が持っている文化の普遍性と多様性を上手に使った新しい国づくりのようなきっかけにできると良いのではないかと思うのです。そのためには一つの場所、一つの時間を一国が占有するというように持っていくのではなく、重なり合って、協力したり、競ったりするという、そういう国際協力のあり方はないのだろうかと考えたときに、文化だったらそれができると考えたのです。重なり合っても他を排斥しないわけです。というわけで、国際協力論を技術移転論として展開することを試みようとしたのが国際文化論への転進の一つの理由だったのです。 政治力や軍事力の方が文化力を補佐役としてしか捉えない、というのではなくて、それとは異なる文化振興論というのがありうるのではないかと思うのです。「やっぱりソフトパワーだ」といってしまうのもわかりやすいことはわかりやすいでしょうが、政治力や軍事力の補佐役に終わらせるのではない文化の位置づけが、文化の独自の力を発揮させることができるような局面が見つかるのではないかと思います。