冷戦終結後のアジアと日本(1) ウクライナという挫折 :平野健一郎・東大名誉教授
アジア研究のゼミ・学界の風景の変化:留学生の存在
川島 1980年代から90年代の時期に日本のアジア研究の「風景」には何か大きな変化がありましたか? 平野 90年代に入ると、大学のゼミにはかなりの数の留学生が混ざっていました。私がアジア政経学会で研究者としてのデビューをさせていただいた戦後初期には、留学生はほとんどいませんでした。もうアメリカの占領下ではありませんでしたが、冷戦時代でしたし、アジアは激しく動いていましたが、それに直接触れる機会はまだなかったわけです。まとめていいますと、アジアとのコンタクトがある前のアジア研究のグループに私が入れていただいていたということなのです。それが70年代から変化を始めて、留学生、特にアジアからの留学生がゼミの中に混じってくれるようになったというのが、今から振り返っても大きな変化だと思いますね。台湾出身の方々と朝鮮半島出身の方々は例外でしたが。他方、われわれの方も誰もまだ大陸に勉強しに行っていない、そういう時代ですね。
戦前以来のアジア研究の戦後との連続性
川島 戦前のアジア研究と戦後の日本のアジア研究との連続性、断絶性についてはどう見ていらっしゃいますか? 平野 私の場合はちょっと風変わりなところがあって、戦前日本の「アジア研究の学知」の影響を一番感じたのはJ. K. フェアバンク先生(※2)からだったと思います。日本人でない中国研究者が日本の戦前の学知をおろそかにしてはいけない、ということをいわれていたという、今の方々になかったかもしれないそういう環境にあったということです。 当時、私は満洲事変の研究を一生懸命やろうと思っていて、それ以外に何もできなかったのですが、今振り返ってみると、その満洲研究を私が目指したことに、フェアバンク先生はある期待を持っておられたのだと思います。 アジア研究の方法論の模索というのは、ずっと続いていると思います。第二次世界大戦後の世界的な状況、一言でいえば、冷戦下の世界的な状況からアジアを学ぶ必要が大いに出て来たわけです。しかし、中国を中心に、アジアへ行ってアジアを学ぶことができないという状況がずっとありました。それだけに、中国でアジアを学ぶ、アジア研究の方法論を得られるかどうか、そういう点でおぼつかないところがずっとあったのではないでしょうか。そう考えると、現在の日本のアジア研究は、現在あり得るあり方をしているということなのだと思います。 他方で、アジアへ行ってアジアを学ぶことができないという状況の下で、日本が特殊で、かつ不可欠な地位を占めてきているというところがあります。それは、日本研究がアジア研究の中に含まれないという日本の特殊性という問題があるということです。それを何とか乗り越えないといけないと思うのです。