人工ニューラルネットワーク研究を牽引してきた日本。なぜノーベル賞を逃したか?
委員会とアインシュタインの紳士的な戦い
委員会のこだわりは、分野だけではなく受賞テーマにも注がれる。最も大きな“事件”はアインシュタインの受賞テーマ、すなわち受賞理由だ。 1905年、アインシュタインは三つのいずれも革命的な論文を発表した。前述したように、この年は「奇跡の年」といわれている。光電効果の理論(3月発表)、ブラウン運動の理論(5月発表)、特殊相対性理論(6月発表)の三つをこの年に発表した。 アインシュタインは1922年、来日する8日前に船上でノーベル物理学賞受賞の一報を受けたが、受賞理由は「理論物理学への貢献、特に光電効果の理論に対して」であった。アインシュタイン自身は特殊相対性理論とその後に発表した一般相対性理論が受賞対象になると思っていたようだ。1921年度は第一次大戦終結直後の様々な混乱がありノーベル賞は保留になっていた。それでアインシュタインの受賞は1921年度受賞ということになり、1922年度は「原子構造と原子からの放射の研究」に対してニールス・ボーアが受賞した。 ノーベル財団によって刊行されたNOBEL LECTURES Including Presentation Speeches And Laureates’ Biographies PHYSICS 1910-1921 (Published for the Nobel Foundation in 1998 by World Scientific Publishing Co. Pte. Ltd.) を読むと、委員会とアインシュタインの間にひそかな戦いがあったことが窺い知れる。
アインシュタインの受賞講演とノーベル委員会の脚注
冒頭に委員長のアレーニウスによる受賞理由が述べられている。概略を記すと、「アルベルト・アインシュタインは少なくとも3つの大きな貢献を物理学並びに人類に対してなした。相対性理論は素晴らしい理論だが、いまだ十分な実証がなく依然哲学的なレベルにとどまっている。実際、アンリ・ベルグソンらの哲学者の間で熱心に議論されている。ブラウン運動の理論も素晴らしい貢献であるが、古典物理学の問題である。 これらに対して、光電効果の理論はマイケル・ファラデーが電気化学(electro-chemistry)の基礎を作ったのに対してアインシュタインの光電効果の理論は光化学(photo-chemistry)の基礎と定量化に道を開いたと言える。しかも、この理論はマックス・プランクの発見以降物理学を革新しつつある量子論の正しさを保証するという意味でも画期的な理論である。 1919年にアーサー・エディントンが率いるイギリスの観測隊が皆既日食において太陽周辺で光が曲がっていることを観測したにもかかわらず、相対性理論に対して委員会は物理学の理論としては認めなかったのである。これはアインシュタインの観点とは全く異なるものであり、アインシュタインはこの委員会の判断を認めがたかったのだろうと思われる。 また、ファラデーとの比較を持ち出すことで委員会はアインシュタインの光電効果の理論がいかに他に抜きんでたものであるかを示そうとしたが、アレーニウスが物理学者というよりは化学者であったので(実際ノーベル化学賞を受賞した)、光電効果の理論を光化学の先駆をなしたと位置付けたこともアインシュタインをいらだたせたのではないかと推測する。 冒頭のアレーニウスの受賞理由の脚注に「スウェーデンから遠く離れたところにいたので、アインシュタイン教授は授賞式には参加できなかった」とある。アインシュタインは1923年7月にイエテボリにあるNordic Assembly of Naturalistsで受賞講演を行った。上記講演集では受賞理由に引き続いてアインシュタインの講演記録がある。なんと、受賞講演として「相対性理論」に終始する講演を行った。委員会は脚注をつけた。「この講演はノーベル賞受賞当時には行われなかったので、光電効果の発見に関したものではなかった」。