大量の紙が必要だった「源氏物語」執筆 清書用だけで2355枚も? 「許したものしか残されない」作品
上級貴族のリアルな振る舞いは…
水野:今回、執筆にあたってまひろが道長に「帝のことを教えて」と話を聞いていましたが、紫式部も、まひろのように「取材」をしていたと思いますか? たらればさん:それはもちろん、していたと思います。まひろのような下流~中流貴族は、特に帝だとか皇太子だとか、親王・内親王がどういう生活を送っていて、どういう思考パターンでどう振る舞うのか、というのは分からないので、説得力をもって描けるわけないんですよね。 たとえばいま、マンガ「ワンピース」の読者のなかに「海賊やっています」という人はいないと思うんですが(たぶん)、当時、『源氏物語』の読者には、同時代人として上級貴族の生活をリアルに知っている人がたくさんいたわけです。モデルとなった当事者さえいた。 たとえば藤壺と光源氏の密会のシーン。情事が終わった後に、女房が光源氏の服を集めて渡して「そろそろお帰りを」というような意味のセリフがあります。こういった所作や機微を、紫式部は知ることができないはずなので、道長が教えたんだろうなあと思います。 「光る君へ」でも、これからさらに取材して、リアリティをもって『源氏物語』をつづっていくんだろうな、と思いますね。
「桐壺」を帝へ…インパクト勝負?
水野:まひろが『源氏物語』を書き始めた回は、これまでのまひろの様々な経験がぎゅっと圧縮された上で、執筆のシーンにつながっていましたよね。 たらればさん:『源氏物語』が書き始められるここまで、「作品」というものは一朝一夕に出来るものではなく、いろんな経験を経て、やっと生まれるんだよ、という作品論・クリエイティブ論として丁寧でしたね。 創作の苦悩って誰でもありますよね。「紫式部だって大変だったんだから」って考えれば、私が大変なのもしょうがないかな、と思えるんじゃないでしょうか。 水野:『源氏物語』を書き始めるにあたって、まひろの上から色紙がハラハラと舞い降りてくるシーンは、これまでまひろがやりとりしてきた「ことば」が降り積もっている、ということなんでしょうね。 たらればさん:そうなんでしょうね。個人的には、本作はNHK大河ドラマ史上最も和歌や漢詩に重きを置かれたドラマだとは思いつつ、そのうえでさらに和歌や漢詩のやりとりをドラマのなかで描いてほしかったなぁとは思いました。 大河ドラマで当初、まひろは代筆屋をやっていましたよね。別人になりかわって歌を送り合ったり、手紙を代筆している。それもあの色紙に降り積もっているはずなので。 とはいえ、脚本の大石静さんはご自身のブログで「起筆のシーンは悩んだ」と書いてらっしゃいましたね。さまざまな考察や研究がある中で、どう書き出されたかをドラマで描くのって本当に大変だと思います。 水野:どう描いても何かは言われるでしょうしね…。 たらればさん:これは個人的な願望も大いに混じっているのですが、偉大な作品の起筆論、成立論、構想論を考える際に、大事な要素があると思っています。 それは「なんのためにそのこと(起筆論)を研究するのか」ということです。 起筆を考察するのは、作品世界がより豊かになるためだと思うんですよね。作者はどこから着想を得たのか、読者は受容するうえで「より深く」「より面白く」「楽しい」作品論が出てくるためだと考える必要がある。 もちろん単に「知りたいから」「楽しいから」「わくわくするから」でもいいのですが、せっかく考察や研究をするのだから、「その作品世界をより豊かにするため」であってほしいと思っています。 思い込みや決めつけで語るよりも、こういう解釈が出来ると、こっちの解釈はこうなるよね、というような、「新たな語り」を生み出すような考えが素敵ではないでしょうか。 水野:たしかにそうですね。 たらればさん:私自身は「紫式部は『源氏物語』を【桐壺】から書き始めた」とは思っていませんが(笑)、今回の大河ドラマで、まひろがさまざまな経験と交流を経て、「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶら給ひけるなかに、いとやんごとなき際にはあらぬがすぐれてときめき給ふありけり。」から起筆した……という描写は、それはそれでとても面白いし、ぜひいろんな議論のきっかけになってほしいと思います。 ワイワイ言うこと自体が、作品が豊かになることなので。いろんな論考が出るのはいいことだと思うし、「こう思う」「こうだったんじゃないか」と話し合えばいいんじゃないかと思います。 ◆これまでのたらればさんの「光る君へ」スペース採録記事は、こちら(https://withnews.jp/articles/keyword/10926)から。