駆除の対象に追いやられた熊との“共通言語”を思索する(レビュー)
市街地に熊が出没するのが当たり前になった。これまで人と熊は生息地を住み分け共存してきたのに、なぜこんなことになったのか。危機感をもった文芸評論家が、日本の古い聖地に秘められた縄文神話を甦らせるため思索の旅に出た。 信州の諏訪大社と紀伊の熊野大社は出雲大社や伊勢神宮にならぶ神道の聖地であるが、祀られる神の御正体さえつかめず、深い謎につつまれているという。だが丹念な文献調査と独特な洞察力、あるいはアイヌ社会で伝統的におこなわれてきた熊送りの儀式との類似性などから、その背後に縄文神話の痕跡を見出してゆく。 たとえば中世に諏訪信仰で広まった甲賀三郎の伝説には、あきらかにユーラシア北方狩猟民のあいだで伝承されてきた熊の民話との類似性が見出されるという。ところが甲賀三郎伝説であつかわれるテーマは熊ではなく蛇である。おそらく縄文から弥生へ文化が移り変わる過程のなかで、伝承された神話の中身も狩猟民から農耕民の世界観が反映されるものに変わったのだろう。 本書を読みながら、かつて人と熊は同じ言葉を話していた、という星野道夫の言葉を思い出した。 狩猟民の神話にみられる熊との異類婚姻譚はそのあらわれであったが、農耕社会に移行し、それが進むうち人類は熊の言葉を理解できなくなってゆく。熊は「隈」すなわち隅っこの見えないところの意味に解されるようになり、熊の姿はいつしか消えてしまった。そしてその行きつく先が昨今の熊騒ぎである。 熊を恐れなくなった私たちは野放図に原野を開発してきた。いまの人類の価値観では、人里に現れた熊は鉄砲や罠で駆除するしかない。駆逐し、除去する。この言葉のなかには熊との共通言語は一ミリたりとも存在しない。縄文思想から今一度、熊の言葉を探し出す時代にきているのはまちがいない。 [レビュアー]角幡唯介(探検家・ノンフィクション作家) 1976年、北海道生まれ。ノンフィクション作家、探検家。早稲田大学探検部OB、元朝日新聞記者。著書に『空白の五マイル』『雪男は向こうからやって来た』『アグルーカの行方』『探検家、36歳の憂鬱』『探検家の日々本本』『旅人の表現術』など。近著『漂流』は自身の体験ではなく沖縄の猟師の人生を追い、新たな境地を開く。 協力:新潮社 新潮社 週刊新潮 Book Bang編集部 新潮社
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