「一生分泣いた」市民の思いも詰まった震災特集 2人だけの月刊タウン誌
岩手県宮古市のタウン誌「月刊・みやこわが町」は、2011年3月11日の東日本大震災で、自らも被災しながら災害の情報を伝えるため取材を敢行、4月に臨時の「特別号」を発行して市民の期待に応えました。社長と記者の2人だけの挑戦。とっさの報道姿勢。なぜ彼らはそうしたのか。現地にたどります。 【写真】6年前の震災「この事態を伝えることが使命」2人で取材敢行した月刊タウン誌
取材者の耐え切れない思い
「月刊・みやこわが町」は地元の文化人も参加して地域の文化を伝える「文化系」の雑誌。初代社長の駒井雅三(こまい・まさぞう=故人)氏が「地域文化の創出」を掲げ、現在の橋本久夫社長(61)が駒井氏の遺志を継いで記者と2人で編集・発行を続けてきました。 被災の直後、「伝えなければ」というジャーナリストの本能に近い気持ちと、市民らの「宮古はどうなっている」「いつ雑誌を発行するのか」という強い声を受けて取材に乗り出した2人。被災1か月と10日近くたった4月20日に発行した「特別号」は、3000部の発行の後、さらに1万部を追加発行するなど反響を呼びました。 特別号で、編集部は読者に向け「……本誌は、まず『今私たちにできること』として特別号を発行することにしました。この未曽有の出来事を記録することで、後世への教訓の一助になればとの思いで、変わり果てた地域の姿をカメラに収めました。復興に向けての一冊になれば……」とメッセージを掲載。「共に頑張りましょう」と呼びかけました。 日本一とされていた防潮堤(高さ10メートル・総延長2433メートル)の一部が壊れた宮古市田老(たろう)地区の記事では、「誰もが『防波堤が壊れるなんて』と絶句するばかりだ。……田老の町は荒野のごとく広がっているだけだ。……災害後の調査で、海岸線から離れた山の斜面まで到達した津波の高さが37.9mまでに達していたことがわかった」と、取材者の耐え切れない思いも伝えています。
震災3年後に発行した「保存版」
「みやこわが町」は、その後通常の発行に戻ってからも随時、震災関連の記事を掲載。震災から3年たった2014(平成26)年3月には、これまでの写真と記事をまとめた「保存版」を発行しました。 その中で、母と3歳の息子、曽祖母を亡くしたという市民の寄稿は「……翌朝、夫が息子をしっかり抱えたままの母の遺体を発見……眠っているかのようにきれいな顔をしている母。少し傷はあるもののあの日11日の朝と同じようにかわいい寝顔のままの息子。……痛烈な思いが胸の中にあふれ、一生分泣いた」と記しています。 市民とともに、震災に翻弄(ほんろう)されながらも「文化系」の編集・取材者の立場から地域のもう一つの表情と向き合うことになった「みやこわが町」。「震災後に通常の雑誌を出すようになった後も、1年余は震災関係の記事が大半だった」と橋本社長。震災から6年がたった今も、震災関係の記事が随時掲載されています。