「ナベツネと正力松太郎」野球に与えた影響の差…プロ野球全体の繁栄をどう考えていたのか
日本のプロ野球は正力松太郎という一個人の「ビジネス的野望」によって創設され、現在の隆盛を見るに至ったと言える。そしてそのビジネスモデルを引き継いだのは、正力に見いだされた渡邉恒雄という経営者だった。 「プロ野球の父」と言われた正力松太郎は、1885年、富山県に生まれる。若いころは柔道選手だったが、東京帝大に進み卒業後は警視庁に入庁。警察官僚として出世街道にのるが、1923年10月、摂政宮(のちの昭和天皇)の暗殺未遂事件(虎ノ門事件)が起こり、警備の責任者だった正力は翌年1月に懲戒解雇された。しかしその直後に読売新聞を買収し、新聞経営者となった。
■読売巨人軍が誕生した経緯 当時、読売新聞は、朝日新聞、毎日新聞(東京日日新聞)という大新聞の後塵を拝する東京地区の一地方新聞だった。大正期から朝日新聞、毎日新聞は「中等学校野球大会」を夏と春の甲子園で開催し、全国的な人気を博し、新聞の拡販にもつなげていた。 読売新聞もこれにならい「野球」を拡販に利用すべく、MLB(当時の呼称は大リーグ)のスター選手による選抜チームを日本に招聘し、大学野球などの強豪選手と対戦させた。これは非常な人気を呼んだが「野球熱」の過熱に危機感を抱いた文部省は1932年、「野球ノ統制並施行ニ関スル件(野球統制令)」を発令、学生、生徒が金をとって野球を見せる試合興行に出場することを禁じた。
第2回の日米野球を企画していた読売新聞、正力は困惑したが、それを逆手にとって沢村栄治など有望選手を大学、中等学校などを中退させるなどして、プロ野球チームの「大日本東京野球倶楽部」を結成。1934年、ベーブ・ルースなどのMLBオールスターチームと対戦させ、大反響を呼んだ。 この「大日本東京野球倶楽部」が、のちに読売巨人軍となった。NPBが2024年を「プロ野球90年」と称しているのは、この1934年を「プロ野球元年」としているからだ。