「人生を変えてくれた」 記者が古里を再訪して知った石巻ラグビー復活の鼓動 #知り続ける
13年前、宮城県石巻市にあった実家は津波に流された。東京都内の大学に通っていた私が帰郷し、目にしたのは基礎部分だけ残った家だった。小学3年の弟は親友も失い、一時は表情も消えた。それでも今、笑顔でいられるのは、4歳から通うラグビースクールが2カ月半後に再開し、仲間と過ごす時間があったからだ。スクール復活までに何があったのか。その軌跡を知りたくて、東京運動部のラグビー担当記者となった私は、再び古里を訪ねた。【毎日新聞・尾形有菜】 【写真まとめ】記者の弟が撮影した、水没した石巻の街
「こんなときにいいのか」
人工芝のグラウンドに立つと、冷たい海風が肌に突き刺さった。2023年12月中旬の日曜日、石巻市の複合スポーツ施設「セイホクパーク石巻」。地元ラグビースクール「石巻ライノス」が年内最後の練習をすると聞いて、東京から駆けつけた。 「震災後、ここができてから、練習場所を移してきたんです」。スクール代表を務める伊藤達也さん(51)が白い息を吐きながら教えてくれた。チームが使うグラウンドは18年に新設された。ラグビー仕様の白線が引かれ、災害時にはヘリポートにもなるという。 「大きい声でコール(かけ声)して」「もっと前から準備しないといけないよ」。コーチが指導する声が響く。駆け回る子どもたちは笑顔だ。 4歳から中学3年まで54人が所属し、学年に合わせた練習メニューを用意している。私が訪れた時は、低学年はボール回しの速さをゲーム感覚で競い、中学生はタックルの練習をしていた。 震災直後の話を向けると、伊藤さんは当時を思い出しながら、言った。「こんなときにラグビーをやっていいんだろうか。あのころは、そんな葛藤があったんですよ」 あのころ――。そう、私も家族と連絡が取れず、3日間、眠れない日を過ごした。
「ヤバイ」のメールに写真1枚
11年3月11日午後2時46分、私は東京都江戸川区にある叔父の家にいた。激しい揺れの後、テレビをつけると、「震源地は宮城県」というテロップが目に飛び込んできた。 両親と2人の弟、妹が暮らす一軒家は漁港の近くにある。電話がつながったのは高校1年の上の弟の携帯電話。「津波が来る。やばい」と叫び、小学校にいる末の弟を自宅から迎えに行くと言って、電話は切れた。まもなく、弟から「ヤバイ」という件名のメールが届いた。本文はなく、水没した街の写真が1枚だけ添付されていた。 その後いくら電話しても家族の誰にもつながることのないまま迎えた3日目の夜、「家族全員、無事です」と母からメールが届いた。涙がとまらなかった。