「人生を変えてくれた」 記者が古里を再訪して知った石巻ラグビー復活の鼓動 #知り続ける
叔父の運転する車でようやく実家にたどり着けたのは、それから約1カ月後。子どものころから見慣れていた景色はがれきの山に変わり、愛犬も綱につながれたまま死んでしまった。 2週間、避難所となった母校の中学校で家族と過ごした。迎えに来た母親と共に車中で遺体で見つかった小学生、飼い犬のために引き返し津波にのまれた老夫婦――。そうした話を両親から聞いた。 末の弟はほとんど口を開かなかった。新聞の「行方不明者欄」に載る親友たちの名前を何度見ても受け止められない様子だった。無表情で黙々と学校敷地内にある畑の土いじりをしていた。どんな言葉をかけて良いか分からなかった。 家族のそばにいたかった。でも大学の授業が再開する。何もできないもどかしさを抱えながら東京に戻った。
石巻ラグビーの復活を
父は高校時代、ラグビーに打ち込んでいた。教員になってからは高校で指導にあたり、ライノスのコーチも務めた。そんな父のもと、上の弟は高校からラグビーを始め、末の弟と1歳下の妹は震災時、ライノスに通っていた。 石巻市はもともとラグビーが盛んな土地だ。全盛期は1980年代で市内3校がしのぎを削り、全国高校ラグビー大会(花園)に出場した。 しかし、少子化が進むにつれ、市内に三つあったスクールも減っていった。代わりに仙台市の仙台育英高が「花園常連校」としての存在感を増していく。 「仙台育英に勝てるのは、石巻の高校しかない」。立ち上がったのは、当時、宮城水産高の教員だった木田恒一さん(61)だった。 花園出場経験がある木田さんは宮城水産高や石巻工高で監督を務めた。裾野を広げようと、新たなスクール設立にも奔走した。
全国から届いたボール
そして、石巻ライノスが06年に創設された。スタート時から約50人のスクール生が集まった。石巻ラグビー全盛期にプレーしたスクール生の父親にもコーチングに加わってもらった。私の父もその一人だった。 石巻ラグビー復活を目指す途上にあった創設から6年目の年、東日本大震災は起きた。 まもなく木田さんの自宅に、全国の高校や大学、企業チームからラグビー用具が続々と届き始めた。ボールや練習着、ヘッドキャップなどで8畳の部屋は埋まった。 「ラグビーをする環境は整った。用具を失った生徒もいたが、みんなに配ることができた」と木田さんは振り返る。だが、多くの人々が家族を奪われ、家を失う中、ラグビーをやってもいいものだろうか。 葛藤はあったが、当時もスクール代表だった伊藤さんのもとには「ラグビーはいつからやんだべ」とスクール生から再開を待ち望む声が寄せられた。 木田さんや伊藤さん、コーチたちで話し合い、5月末ごろに活動を再開した。集まった中には被災した子どもたちもいた。「いきいきとプレーする姿を見て、これはやらないといけないと感じた」。伊藤さんは活動の継続を決意した。