開通時の利用者は一日数十人、でも「高野フルーツパーラー」の前身はあった!
新しい駅舎が東口に建つ
明治末の1909(明治42)年12月からは山手線にも電車が投入され、大正時代に入ると第一次世界大戦による好景気を背景に貨物輸送が活況を呈したので、山手線や中央線の客貨分離、すなわち複々線化が進められてゆく。新宿駅も、駅舎を創業時の場所にもどすなどの改良工事を1919(大正8)年から始めたのだが、関東大震災が起こり建設中の新駅舎が大破するなどの災厄に見舞われてしまう。 それでもようやく1924(大正13)年7月には、中央線電車を甲州口・青梅口の2ヵ所に停める変則運用をやめて、1本のホームに統一(これが現在の15・16番線=JR最西端のホームである)、また前回の代々木駅のところで紹介したように、代々木・新宿の両駅で山手線と中央線(緩行)の乗換えが同一ホームでできるよう配線を工夫するなどの改良がなされ、いまの新宿駅の原型が定まったのだ。 仕切り直しとなった新駅舎も、各ホームとを結ぶ連絡地下道(現在の自由通路)とともに1925(大正14)年4月に落成している。鉄筋コンクリート造り2階建ての堂々たる建物で、縦長の窓が連続する意匠は、現存する上野駅や小樽駅、あるいは神戸駅などにも共通する見ばえだ。2階建てとはいえ、天井が高いので3階相当ぐらいはありそう。しかも、ホールは高さを生かした吹抜け空間となっていたから、混雑のなかにも開放感があったのではないか。 この大正末期の建物を取り壊し、1964(昭和39)年5月に新築された現在の東口駅舎は、当初からテナント入居の「ステーションビル」として計画され、「マイシティ」と名乗った時代を経て2006(平成18)年に「ルミネ エスト」へという経緯をたどる。もともと商業施設が“主”だったので、“従”たる駅機能は片隅に追いやられて息苦しい。いまの新宿駅舎には、鉄道全盛時代の「駅らしさ」は残念ながら……ない。(つづく)
辻 聡