開通時の利用者は一日数十人、でも「高野フルーツパーラー」の前身はあった!
角筈村字渡邊土手際
1885(明治18)年3月1日、日本鉄道の品川線、品川-赤羽間が開通した。赤羽・板橋・渋谷の各駅と並んで、この日、新宿駅が誕生したのである。その13年前に新橋-横浜間で日本初の鉄道が開業したときは、天皇の臨席を仰ぎ華々しい開業式まで執り行なわれたのだが、品川線全通を祝う行事が催された記録はない。同線の敷設目的が貨物輸送に重点が置かれ、駅が設けられたのは宿場や集落から離れた雑木林に囲まれた場所だったという事情によるものか。新宿駅の住所は「東京府南豊島郡角筈村字渡邊土手際」といった。 この年、現在の調布市から新宿駅の目の前に移転して、繭(まゆ)の仲買いや古道具屋を始めた者がいる。高野吉太郎といい、副業として水菓子(果物)も商った。柿・梨・栗などを産する多摩川上流域が後背地にあったこと、甲州街道や青梅街道で運ばれてくるブドウやアンズ・スモモ、さらには貨車により相州のみかん、房州のビワの輸送にも適していると踏んだのだ。「高野フルーツパーラー」のはじまりである。 4年後の1889(明治22)年4月11日、甲武鉄道会社の手により新宿-立川間(4ヵ月後に八王子まで延伸)の鉄道が新たに開通、新宿駅は日本鉄道と甲武鉄道の共同駅となった。折から小金井堤の花見どきだったので、17日から30日まで「観桜臨時列車」が運転されている。桜の開花は昨今より遅かったのだ。 初代の新宿駅は、いまの「ルミネ エスト」(かつてのステーションビル)付近に小さな木造駅舎が建ち、2面のホームと旅客用3線および貨物線を有していたようだ。高野商店のほかには茶屋や、貨車で到着する薪炭(しんたん)を扱う問屋が目立つ程度だったという。紀伊国屋書店を創業した田辺茂一の実家も薪炭商であった。 甲武鉄道はその後、路線を東へ伸ばす。小石川に砲兵工廠があったので、この輸送を円滑ならしめたいとの軍の思惑も絡んでいた。1894(明治27)年10月に新宿から牛込まで、翌年4月には飯田町までを開業させている。まさに日清戦争の最中でさっそく日本鉄道線へ直通する軍用列車が運転され、沿線の駅前では出征兵士を送る万歳の声が盛んだったとの古老の話も伝わる。レールは1904(明治37)年12月、御茶ノ水まで達した。