開通時の利用者は一日数十人、でも「高野フルーツパーラー」の前身はあった!
新宿駅がふたつあった!?
創業時、一日の利用者がわずか数十人だったという新宿駅は、列車本数の増加につれ徐々に賑わいを見せるようになっていった。1897(明治30)年には駅の西側に構内を拡張しているが、同年の一日平均乗降人員は3,622人と記録にある。 このころ、日本鉄道は品川線の目白と板橋のあいだから分岐して田端と結ぶ豊島線の準備を進め、また甲武鉄道は蒸気機関車牽引の列車から、短編成の電車を多数運転する方向へ舵を切り始めていた。前者は1903(明治36)年4月の田端-池袋間の開通を受け品川・豊島両線を合わせて山手線とする、また後者は1904年8月から飯田町-中野間での電車運転開始というかたちで結実したのだ。 甲武鉄道に電車が導入されたことで、新宿駅は電車庫の新設など大規模な改良に迫られた。1906(明治39)年3月に完了した工事により、まず甲州街道に人道橋が渡され従来の踏切横断を改善した。そして駅舎を人道橋のたもと、街道に面した南側へ移している。ホームは日本鉄道・甲武鉄道それぞれに「島式」(鉄道駅のプラットホームの両側が線路に接している形状のホーム)が各1面、くわえて甲武鉄道の電車ホームとして南寄りに甲州(街道)口、約200m離れた北寄りに青梅(街道)口のふたつを設けた。電車庫は甲州口ホームの西側。同じ年、甲武・日鉄両社は鉄道国有法により国に買収されたのである。 阿坂卯一郎著『新宿駅が二つあった頃』(1985年、第三文明社)という本に、この電車ホームの体験談が登場する。中学受験のため、大塚から山手線でやって来た著者が新宿駅で乗り換えれば甲州口で、「中央線の電車がくるのを待った。(中略) やっときた電車に乗ったと思ったら、もう次の駅についた。そこが降りる駅で、名前は青梅街道口新宿といった。おどろいたことに、新宿駅が二つあった」! 駅の西側に開設された淀橋浄水場への通勤の便をはかる目的もあって青梅口が開かれたのだが、ほどなく著者は甲州口で降りても目的の学校までは歩いて行け、乗換待ち時間を考えればかえってそのほうが早いことを悟るのである。