日本人のランキング好きはいつから?江戸と大坂、地域性にじみ出る見立番付
買い物をしたり、食事をするお店を探したりするのに日ごろから参考にするランキングは大人気です。江戸時代には相撲の番付表のような体裁でつくられた「見立番付」というものがあり、今のランキングのような役割を担っていたそうです。 びっしりと細かい字で書かれた番付には、真面目な内容からどうでもいいものまでさまざまでしたが、じっくり読んでみると、当時の庶民の関心事や江戸と大坂の土地柄の違いなど、いろいろな情報が詰まっていることがわかります。 庶民に大人気だったかわら版、見立番付から垣間見える庶民の興味と暮らしなどについて大阪学院大学、准教授の森田健司さんが解説します。
江戸時代の「おもしろランキング」
現代の日本人は、無類のランキング好きだと言われる。確かに周囲を見渡してみると、売れているCDのランキング、好きな俳優のランキング、評価の高いレストランのランキング、もう一度行ってみたい観光地のランキング、ネットにおけるアクセス数のランキングなど、ありとあらゆるものが順位付けされて、情報として流通している。 このようなランキングへの高い関心は、一体いつ頃、発生したものなのだろうか。これを歴史的に調べてみると、どうも江戸時代の中期頃、18世紀の終わりには、今につながるランキングへの関心が生まれていたようである。それを確認できる史料が、かわら版の一種である「見立番付(みたてばんづけ)」と呼ばれる印刷物だ。 見立番付は、今も親しまれている相撲番付の表現形式を借りて、様々な事物に順位付けをした一枚刷りの商品である。端的に「相撲番付のパロディ」と表現してもよいだろう。 かわら版の大部分を占めた内容は「鮮度の高いニュース」だが、見立番付は最新情報の提供を目的としていなかった。売りとなったのは、情報の「料理の仕方」である。情報そのものではなく、制作者の切り口を楽しむ商品が、見立番付だった。 ただし見立番付も、発行の許可を一切受けていない、いわゆる非合法出版物だった。この点が、見立番付をかわら版の一種ととらえる一番の理由である。 ただし、普通のかわら版と違い、出版元が明記されているものも存在した。発行元を書いていても、よほどのことがない限り、役人がやって来ることはなかったからだ。つまり、幕府から「見立番付は放置しておいても害が少ない」と判断されていたのだろう。 それでは、見立番付を実際に見てみたい。冒頭に掲載したのは、「為御覧(ごらんのため)」と題された「江戸時代における都市のランキング」である。 相撲番付であれば、大きく「蒙御免(ごめんこうむる)」、つまり役所から興行の許可を受けたことを示す文字が入っている場所に、このように「為御覧」などの言葉を入れている見立番付が多くあった。 縦書きの番付には、中央の柱部分に行司や世話役、勧進元、差添などの役職が書かれ、そこにはランキングに入っていない「別格」のものが記されていた。この番付では、例えば勧進元の「三ヶ之津=江戸・京都・大坂」であり、これらはランキングに入れても面白みがない。堺や山田のように遠国奉行が置かれていた都市なども、同じく別格であって、順位付けするまでもないということだろう。 見立番付の多くは、このように東西に分かれて書かれているが、この分割にもそれほど意味がなかったようである。ただし、上位から順番に書かれていて、そこに大関、関脇、小結などの階級が付せられているのは、相撲番付同様である。なお、この都市ランキングの1位は名古屋と熊本で、3位が仙台と福岡、5位が金沢と広島、ということになる。 ちなみに、階級としての横綱が正式に定められたのは、1909(明治42)年のことである。そのため、江戸時代の番付には横綱が登場することはなく、力士の最高位は大関だった。