日本人のランキング好きはいつから?江戸と大坂、地域性にじみ出る見立番付
タイトルの下には「八丁堀七軒町」とあることから、この「愚者と賢者」ランキングは、江戸の話だと判明する。当時の江戸っ子は、どういう人を賢者と賞賛し、また愚者と蔑んだのか。記されているのはあくまで一個人の考えだが、いくつか面白そうなものを書き出してみよう。 <利口の方> 大関 ねていても工風をする職人 関脇 諸人にあいそうのよひ商人 前頭(二枚目) 人のちやうちんをまちてあとから付て行人 前頭(七枚目) 色じかけで金をもふける女 前頭(八枚目) 田舎からきて金持になる人 <馬鹿の方> 大関 おきていなからよしあししらぬ人 小結 おやのいけんをきかぬむすめ 前頭(筆頭) しんぞうにだまされるおやぢ 前頭(二枚目) 近道をゆくとてふみまよう人 前頭(四枚目) 女湯をそとからのぞいてみているおとこ 「利口」の大関「寝ていても工夫をする職人」、関脇「諸人に愛想のよい商人」は、こういった番付が町人向けの商品だったことを再認識させてくれる。前頭二枚目は、実際に夜道を行く際のみならず、日頃の行動全般について言っているのかも知れない。 続いて、「馬鹿」の大関「起きていながら良し悪し知らぬ人」は、今風に訳すと「常時、寝ぼけてるような人」だろうか。前頭二枚目の「近道を行くとて間違う人」は、馬鹿と言ってしまうと、なんだかかわいそうな感もある。前頭四枚目に関しては、もう今も昔も変わらないという感想しか出てこない。
大坂の「愚者と賢者」
ところで、このような「愚者と賢者」ランキングには、江戸版だけでなく大坂版も存在している。それが、次の「あほうとかしこの番付」である。
「あほう(阿呆)」は今でも全国的に使われる言葉だが、「かしこ」の方は、関西でも一部地域しか通用しないらしい。これは、「賢い」の「い」を省いて、「賢い人」を意味する語である。標準語の「利口」より、もう少し親密なニュアンスを持つ言葉に思える。 江戸版と一見して違うのは、「愚者」である「あほう」の方が上に書かれている点で、この辺り、当時からあった文化的な違いを窺わせる。以下、こちらの番付も主要なものを書き出しておきたい。 <あほうの方> 大関 大水に川わたりするうろたへもの 関脇 御法度のしやうぶごとするもの 前頭(筆頭) わがことをわがでにほめてりこうがる人 前頭(三枚目) おとこだてにふぐをくうもの 前頭(八枚目) ほたるがりにいてどつぼへはまるもの <かしこの方> 大関 うつくしいかかを見世においてあきないさす人 関脇 役者のにしきえを見てしばい見たかほする人 前頭(三枚目) すいがつてぜにつかわぬもの 前頭(十枚目) はらをたてたりたてんかしれぬ人 前頭(十五枚目) 七十すぎたいんきよのてかけになるもの 「あほう」の大関は、「大水の際に川を渡る愚か者」で、今でも台風のときなど非難の対象になる行為である。同関脇は、「法で禁じられている博打に興じる者」のことで、これも現在と全く変わっていない。前頭筆頭は、「自画自賛をする者」の意。面白いのは次の前頭三枚目で、意訳すると「男らしさの証明のために河豚を食う者」となる。なかなか命知らずな「あほう」である。個人的には、最後の「蛍狩りに行って土壷(肥溜め)に落ちる者」が、哀しみをたたえつつも最も笑える気がする。 対して「かしこ」の方は、江戸版の「利口」とは、ちょっと違った傾向がある。 大関は「美しい妻を店先に立たせて商売する人」で、これは確かに儲かりそうである。関脇は、今風に言うと「映画を実際に見ず、レビューだけ読んでその作品を語る人」のようなものだろうか。前頭三枚目は、「ケチって金を使わない人」の意。最後のものは、「七十過ぎたお爺さんの愛人になる者」で、なぜ「かしこ」なのかは、あえて言うまでもない。 以上でわかるように、大坂の「かしこ」は、江戸の「利口」以上に、実利を意識したものが多いようである。この辺りを「さすが商都」と思うか、「お金のことばかりで恥ずかしい」ととらえるかは、個人の感性の問題かも知れない。 無名な人物が面白半分で作ったものとはいえ、このように版元が明記されている見立番付からは、地域の特性などを知ることもできる。そういった意味で、普通のかわら版とは違った角度から庶民文化に迫るための、貴重な史料だと言えるだろう。 (大阪学院大学 経済学部 准教授 森田健司)