ほとんどの日本人が見落としている「重大な事実」…日本哲学が私たちの生活に役立つ「意外すぎる理由」
明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。 【画像】日本でもっとも有名な哲学者がたどり着いた「圧巻の視点」 ※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。
とある学生の素朴な疑問
そもそも日本の哲学を学ぶ意義はいったいどこにあるのだろうか。それを知ることで何を得ることができるのであろうか。そのような疑問を抱く人もいるかもしれない。 簡単に答えることのできない難しい問題である。その点について考えるために、かつて私が日本哲学史の講義をしていたときに、一人の学生から受けた質問を手がかりにしたい。その学生は、哲学は普遍的な真理をめざすものであり、それに「日本の」という形容詞を付するのは適切なのだろうかという質問をした。もっともな質問であると思う。 確かに哲学は、その成立以来、普遍的な原理の探究をめざしてきた。しかし普遍的な原理の探究であることは、ただちに使用される言語の制約から自由であるということを意味しない。私たちの思索は、私たちの文化・伝承の枠のなかでなされるのであり、一つ一つのことばのズレ、その集積としてのものの見方や文化そのものの差異が、「真なる知」を問う問い方、答えの求め方に影響を及ぼさないとは、とうてい考えられない。 ギリシアの哲学と、それを受け継ぐヨーロッパの哲学こそが唯一の哲学であるという考え方もあるが、私はギリシアの哲学もフランスの哲学もドイツの哲学も、それぞれの言語を用いてそれぞれの文化・伝承の枠のなかでなされる営みであり、その制約から自由ではないと考えている。 どのような問題について論じるのであれ、それぞれの長い歴史のなかで形作られてきた自然や神、人間や歴史をめぐる理解を踏まえて答が探究されていくのであり、そうした前提からまったく離れた──言わば無菌の──時空間のなかで思索がなされるわけではない。 私たちの知は私たちがものを見る視点の影響をつねに受ける。言いかえれば、私たちがものを見るとき、つねにその視点からは見えないもの、あるいはその視点設定のゆえに覆い隠されるものが生まれる。そのとき重要なのは、異なった見方を否定したり、排除したりすることではなく、それと対話することである。 日本の哲学はその対話に大きな寄与をすることができる。伝統を背負いながら、自ら主体的に思索するからこそ、他の文化・伝統のなかで成立した哲学と対話することができるし、哲学のより豊かな発展の可能性を見いだしていくことができる。そのことを視野に入れながらこれまで日本哲学史の講義を行ってきたし、本書でもそれを意識しながら話を進めていきたい。 それでは日本の哲学はこの対話においてどのような寄与をなしうるであろうか。独自性はどういう点にあるだろうか。それはこの本のなかで少しずつお話ししていくが、あらかじめ簡単に各講の内容について記しておきたい。