生産台数「わずか13台」 マセラティすら望まなかった “残念すぎる” クアトロポルテ 歴史アーカイブ
シトロエンとの共同開発
11年にわたって続いた第6世代のマセラティ・クアトロポルテの生産が、ついに終了した。 【写真】いつ見てもダンディ! 「ちょいワル」イメージの高級イタリアンGT【マセラティ・クアトロポルテ・トロフェオ】 (35枚) マセラティは、年間販売台数を5万台に伸ばすと期待していたが、目標を上回ったのは一度だけで、常にBMW 7シリーズの後塵を拝してきた。「ちょっと風変わりなキャラクター」、高価格、そして最新モデルへの更新の失敗がその主な原因である。 しかし、状況がもっともっと悪かった可能性もある。マセラティは、わずか13台しか生産できなかった第2世代クアトロポルテの苦い経験を忘れていない。1万3000台でも1300台でもなく、13台だ。 1961年に登場した初代クアトロポルテは素晴らしいクルマだった。後輪駆動、パワフルなV8、快適性と運動性能の絶妙なバランスなど、この種のクルマの雛形を作り、800台近いセールスを記録した(当時の高級車市場はごく小規模だった)。 後継車の開発は、シトロエンとの合弁事業に合意した後に始まった。シトロエンはちょうど、新型SMの開発にグランドツアラー専門家の協力を求めていた。そのため、2台は同じシャシー(クアトロポルテの駆動軸をフロントに配置)、3.0L V6、斬新なハイドロニューマチック・サスペンションを使用し、マセラティはデザインの責任をピエトロ・フルア氏からベルトーネのマルチェロ・ガンディーニ氏に移した。
オイルショックと操業停止
1974年10月のパリ・モーターショーでデビューしたとき、『AUTOCAR』誌は、駆動系の多くがシトロエン製であることからやや否定的な見解を示し、当初はSMの4ドア版として計画されたのではないかと推測したほどだった。それでも「非常に豪華で快適な長距離ツーリングカーになることは間違いないだろう」とした。 実はSMのセダンも並行して開発されていたが、日の目を見ることはなかった。1974年12月、シトロエンは経営難からプジョーの傘下に入ることを余儀なくされ、1975年6月には、前年の250万ポンド(現在の貨幣価値に換算すると2300万ポンド=約43億円)の赤字を受けてマセラティの事業も一時停止となった。 もちろん、他の高級車ブランドと同様、1973年の突然のオイルショックにより、不経済なクルマは事実上どこにも売れなくなったという背景もある。 こうした状況によって、ロールス・ロイスに匹敵する5.5L水平対向12気筒エンジン(!)を搭載したマセラティのリムジンも実現しなかった。 マセラティの約800人の従業員にとってありがたいことに、シトロエン・プジョーは6か月間の清算の延期に合意し、数日のうちに仕事は再開された。 ベルトーネもこの方向転換に一役買っていたかもしれない。クアトロポルテ用の金型と設備をすでに準備していたが、まだ代金が支払われていないという噂があった。