「子どもは作らない」と決めているけど… 30代女性が『進撃の巨人』を大泣きしながら見て考えたこと
『進撃の巨人』における「反出生主義」
『進撃の巨人』のストーリーやその素晴らしさについて説明するとそれだけで本が一冊できてしまうので割愛するが、要は「人間は争い、過ちを繰り返すが、それでも人生にはかけがえのない素晴らしい瞬間がたしかにあり、地獄のような世界に生まれたとしても、人生は決して無意味ではない。人間は生まれてくるに値する存在である」ということを教えてくれる大傑作である(「巨人と戦う話でしょ」くらいの認識の方にもぜひ読んでいただきたい)。 ネタバレになるので未読の方にはここから注意して読んでほしいのだが、物語の後半には、「反出生主義」(「人間はこの世に生まれないほうがいい」という考えと、「人間は子供を産まないほうがいい」という考えからなる主義)的な思想が登場し、大勢がそちらに傾くかと思われるのだが、それを明確に否定するメッセージが打ち出されて、とても心打たれるクライマックスへと物語が展開していく。 私はそれを大泣きしながら見て、同時に「私の人生は……この人たち(作中のキャラクターたち)が命を賭して出した答えを否定しているのかもな……」とも思うのだった。 作中には、主人公が無理やり子孫を産まされそうになる女性を守ろうとするという描写もあるほか、女性キャラクターの描き方がステレオタイプ的ではなかったり、そもそも性別を明確にしないキャラクターがいたり、家父長制的なシステムを否定する部分があったりと、かなりフェミニズム的要素がある作品である。 そのため、「産めよ増やせよ」的な思想とは相反する作品ではあるのだが、「生まれてくることの価値」や「次の世代への継承」というメッセージの面から、私のような「子供を持たない選択」をしている人間は本当に間違っていないのだろうか……何か大事なものを見失っているのでは……という気持ちにもなるのだ。
「子供を持ちたい」はエゴイスティック?
そういう気持ちになるのは、そもそも自分の中に「子供を持たない自分の人生には何かが欠落しているのではないか」「子供を持ち、次の世代にバトンをつなぐという“素晴らしい”ことをやらない私は、“素晴らしくない”存在なのでは」という考えがあるからである。自分が否定しているはずの考えが本当は自分の心の中にあり、それがフィクションに触れたときに「あぶり出し」の文字のように浮かび上がってくる。 そして焦って「やっぱり子供を持ったほうがいいのかも……」と思ってはみるものの、「自分の人生を素晴らしいものにするために、『子供』という他人を生み出すのか? それってめちゃくちゃエゴじゃない?」という考えが浮かび、いつも頭にある「産まない理由」たちが次々と顔を出してきて、しばらくするとさっき浮かび上がってきた「子供を持ったほうがいいかも」という気持ちは鳴りを潜める。そんなことをずっと繰り返している。 私の子供は、私の物語を盛り上げるために存在するピースではない。そんなことは当たり前のはずなのに、「子供を持ったほうがいいのではないか」と思わされるときは、いつも自分に何らかの欠陥を見つけて、それを埋めたいと思ったときなのである。 子供を持ったら、自分の人生がもっと満たされて、もっと意味のあるものになるのではないか? と。 しかし、「子供を持ちたい理由」にエゴイスティックな理由以外のものなんて本当にあるのだろうか? 「夫と自分の遺伝子を持った子供が欲しい」「自分の子供に会ってみたい」「母親になりたい」「父親になりたい」「親に孫を見せたい」「弟か妹をつくってあげたい」「女の子が欲しい」「男の子が欲しい」……。 どうしたって、まだ存在していない人間の意思は聞けないし尊重できないわけで、そうなると新たな人間を意図してこの世に産み出すという行為はすべて「すでに存在している人間(親)が何らかの希望を満たすために行うもの」ということになる。 「生まれてくる子供の意思を尊重して、彼らが『生まれてきたい』と強く希望したので、子供をつくることにしました」というのは、どだい不可能なわけだ。