「5000万人避難まで想定した最悪の事態」菅直人元首相が振り返る3.11 #あれから私は
──福島第一原発と東電本店では24時間のテレビ会議がつながっていたはずですが。 「その時点では、テレビ会議の存在は知りませんでした。ベントが遅れている理由も分からない。危機だけは刻一刻と迫ってくる。そこで、現場の責任者と直接話をするしかないと思い、12日の午前6時ごろ、首相官邸のヘリポートから福島第一原発に向かうことにしたのです」 ──吉田昌郎所長に会いに行かれたわけですね。 「はい。直接話したのは1時間弱でしたが、行ったかいがありました。はっきり、できるできないを言う人だったからです。吉田所長は『ベントは通常ならスイッチひとつで開くはずですが、電源喪失で弁が開かない』と言いました。『そのため弁の近くまで人が行くしかないが、放射線量が相当高い。作業員が数分刻みで交代しながらやらなければいけない』と。そのうえで、吉田所長は『最後は決死隊をつくってでもやります』と言ってくれた。私はこの人は腹が据わっているなと思い、『分かりました。頑張ってください』と福島を後にしたのです」 「ところが、官邸に戻ってしばらく経った午後に秘書がすっ飛んできて、『総理、テレビを見てください!』と。見てみると、1号機の建屋が水素爆発を起こしていたのです」 ──爆発の情報は上がっていなかったんですか。 「テレビ放映は爆発から1時間以上も経っていました。私の目の前に東電の武黒フェローがいたのですが、爆発の情報は伝わっていない。あまりにひどいと思いました。すでに原子力災害対策特別措置法が機能し、通報義務が生じているなか、東電は政府に1号機の爆発まで上げてこなかったのです」 ──なぜでしょうか。 「分かりません。混乱もしていたでしょう。実際こんなこともありました。震災初日に電源が喪失した際、『電源車を送ってくれ』というので必死に手配して電源車を現地に送ったんです。『やっと到着した』という連絡が入りほっとしたら、『差し込み口が違う』と。要は、原発に接続するケーブルの差し込み口が電源車のそれと合っておらず、使えなかったのです。その後も『配電盤が海水でやられていてつなげない』という報告がありました。それくらい混乱した状況でした」