「5000万人避難まで想定した最悪の事態」菅直人元首相が振り返る3.11 #あれから私は
2011年3月11日14時46分、三陸沖で起きた地震は、巨大な津波を発生させ、1万8000人あまりの命を奪っていった。津波は福島第一原子力発電所にも襲いかかった。沿岸に立つ1号機から4号機は津波で電源を喪失、核燃料を冷却させる手段をなくし、1号機から3号機は核燃料が溶け落ちる未曽有の事故に発展した。菅首相(当時)は、津波被害には自衛隊の10万人派遣で対応したが、原発事故については東京電力とともに事態を収拾しなければならなかった。
朝6時、吉田所長に会いに福島へ
──改めて聞きます。原発事故が起きた3月11日はどんな状況だったのでしょうか。 「津波によって福島第一原発の電源が喪失したのは15時30分ごろ。17時42分に経済産業大臣からその報告を受けたときは背筋が寒くなりました。地震で鉄塔が倒れたうえ、非常用電源となるディーゼル発電機が津波をかぶって動かなくなった。原発で電源喪失とは、冷却ポンプが動かなくなり、炉心がメルトダウンを起こすことを意味します」 「官邸に原発の状況を伝えに来たのは3人いました。東京電力の武黒一郎フェロー、原子力安全委員会の班目春樹委員長、そして原子力安全・保安院の寺坂信昭院長です。保安院は本来、原発の安全管理をするための資源エネルギー庁の一機関です。ところが、院長に状況を聞いても要領を得ない説明でした。おかしいと思って、どこの出身なのかを尋ねると『東大経済学部』だという。それでは、原発の技術も安全の中身もわかるはずないと思いました」 ──11日夜には、1号機の内部でメルトダウン(炉心溶融)が始まっていました。 「12日の午前1時ごろ、東電側から連絡がありました。1号機の格納容器の圧力が上がって壊れてしまう、だからベント(一時的に弁を開ける排気)をしたいと。ベントをすれば放射性物質が出てしまうけど、やらなければ格納容器が爆発すると。私からは『やってください』と許可を出しました。ところが、何時間待ってもベントをしたという報告が来ない。武黒氏に聞いても『分かりません』と。この非常事態に東電はどうなってるんだと思いました」