つんく♂語る【前編】令和もここにいるぜぇ!ミュージシャンとして、プロデューサーとして
契約打ち切り危機からの「上・京・物・語」
音楽への熱い想いは低迷期もずっと持続していたが、現実は厳しく、デビューから2年。契約期間の終了時期が近づいていた。 「上京してくる時はすぐ売れると思っていたので、契約終了後どうするとか、考えたこともなかった。レコード会社からの契約終了が近づいてるよというようなメッセージに急に焦りを感じました」 そんな中、94年1月に大きな転機が訪れる。 4枚目のシングル「上・京・物・語」が当時約3万枚でオリコン週間47位という好成績をマーク、自身初のベスト50内に入り、「ひとまず次のシングルを作りましょう」と最悪の場面は乗り越えた。この頃のシャ乱Qにとって、3万枚売れることはかなり大きな出来事だったという。結果、同年10月リリースの「シングルベッド」は95年になってもジリジリと売れ続け、超ロングヒットとなり、シャ乱Q初のミリオンセラーに。バラードでのヒットとはガラッとイメージを変え、派手な衣装のノリのあるナンバーの7枚目のシングル「ズルい女」もミリオンとなった(累計で約150万枚)。前述の「上・京・物・語」もそれに引っ張られる形で結局12万枚を売り上げた。 バンドもつんく♂も一躍ブレークした。大晦日の第46回NHK紅白歌合戦にトップバッターとして初出場を飾り、ライブや音楽番組への出演が加速度的に増えていった。
モーニング娘。で無限の想像力の世界に突入
ミュージシャンとして成功したつんく♂が、次に大きな転機を迎えたのが97年、モーニング娘。のプロデューサーを引き受けたときだ。 「最初は他人の人生を背負って曲を書くなんて考えもなかったです。片手間でヒット曲を作ろうなんて考えると音楽の神様に見透かされ、ヒットを書けなくなってしまうと思っていましたから。なので僕から積極的に『やりたい!』って気持ちで始まったのではなかったんです。『上・京・物・語』のヒット含めて、テレビ東京にはとてもお世話になった恩返しの意味は大きかったです。当時のマネージャー和田(薫)さんからも『ここは勝負だな』って促されたのもあってスタートしました。ただ、その後シャ乱Qも活動休止時期に入ったりして、違う意味で切り替えのタイミングとなったように思います。一番はシャ乱Qではメンバー同士バランスとりながらレコーディングを進めてたのに対して、モーニング娘。に関しては100%僕が権限を持ち、テーマやコンセプト含めて、歌詞、曲、アレンジ、方針を進めることができたので、僕がアマチュア時代から含めて紆余曲折の中、何年もかかって学んできたすべてを短期間の中でモーニング娘。に投入できたのは充実感でしかなかったのは事実です。寝不足だとかなんだかんだ忙しかったのは実際本当にすごかったけど、それ以上に楽しさが優ってた。結果的には音楽の神様への恩返しができたのかもしれません。いや、さらに恩恵を受けたのかな」 モーニング娘。は“モー娘。”として親しまれ、国民的アイドルグループと称され成長していった。つんく♂自身は女性ヴォーカルユニットとしてプロデュースを開始した。 「どんなグループにしたいとか、考えたこともなかったですね。その時、そのご時世の中で迎えた局面の中でベストを尽くすのみでした。ただ、苦し紛れから始まった加入や脱退を繰り返すということが、つんくプロデュースの特徴となっていったことはラッキーでした。本来なら成熟してしまうはずのグループが常に新人のような鮮度を保てた。それは僕自身が作家として、そしてプロデューサーとして煮詰まることなく、いつも新鮮でいられた結果となった。無限の想像力の世界に突入してったように思います」