沖縄「本土復帰45年」戦後の歴史を振り返る 坂東太郎のよく分かる時事用語
本土復帰までの紆余曲折
米軍統治下で沖縄住民が最もつらい思いをしたのが「米軍に土地を奪われ基地にされた」ことです。まず1945年の沖縄上陸直後は対日戦が続行中であったので、基地増設は当然のように行われました。敗戦後も旧ソ連を中心とする東側陣営に対抗すべく、住民の土地を強制収容して基地造りが促進されました。住民側は「銃剣とブルドーザー」と恐れると同時に逆らえないもどかしさから次第に反基地の気運が高まり、日本への復帰を望むようになっていきます。 東西の「冷戦」はアジアに限っては「熱戦」でした。1950年に勃発した朝鮮戦争でアメリカは南側の大韓民国を支持し、60年代後半からはベトナム戦争へ本格介入します。地理的に沖縄は基地として「もってこい」だったのです。本土での反基地闘争も結果的に「外国」沖縄への負担増となりました。例えば米海兵隊は反対運動を受けて、岐阜や山梨から沖縄へと移駐したのです。 住民の反発が強まっていきます。1951年には沖縄社会大衆党・沖縄人民党を中心に「日本復帰促進期成会」が結成されました。収用された土地代をめぐって政治的意見を異にする者でも一点で団結した「島ぐるみ闘争」(54年)や、米軍人や軍属(基地で働いている運転手など)が起こした事件が公正に裁かれない現状に怒った住民がアメリカ人の車両約80台を焼き払ったコザ騒動(70年)などが起こりましす。60年には沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成され、本土復帰運動の中心となりました。 1965年、佐藤栄作首相が戦後初めて沖縄を訪問し「沖縄の祖国復帰なくして、日本の戦後は終わらない」と意欲をみせました。これまで任命制であった行政主席も68年、公選へと切り替わり、復帰協の会長も務めた屋良朝苗(やら・ちょうびょう)が当選します。公約は「即時復帰」でした。 日米共同声明(1969年)の発表により、72年の「核抜き・本土並み」を条件とした返還が具体化しました。「核抜き」とは沖縄に核兵器を置かず、かつ日米安全保障条約を適用するという意味です。「本土並み」の狭義の意図は60年新安保条約で定めた事前協議制を沖縄にも当てはめる、でした。 1971年、沖縄返還協定が調印されて主権がアメリカから日本に返され、翌72年5月15日、沖縄の日本復帰が実現したのです。ただし軍事基地問題は未解決のままでした。