30年前、日本の警察官たちが送り込まれたのは「戦地」だった 至近距離で撃たれ「殉職」も カンボジアPKO、政府の思惑の犠牲に
1993年4月14日、警視庁の警察官だった平林新一さん(68)はカンボジアにいた。国連平和維持活動(PKO)の文民警察官として派遣されていたためだ。この日、会議に向かうため1人で国連の車を運転していると、突然、銃声が響いた。車の前方に男2人が立ち、こちらに向けて銃をかまえている。車を止めると、たちまち10人近くに囲まれ、車から引きずり降ろされた。各地でテロ攻撃を繰り返していた「ポル・ポト派」だった。男たちが持っているのはAK―47(自動小銃)。1人が平林さんの顔面に、もう1人が背中に突きつけた。その場で車と財布を奪われたものの、命は助かった。だがその約3週間後、恐れていたことが起きた―。 地域紛争に対処するため、国連が停戦の監視や復興・復旧援助などの活動をするPKO。外務省のホームページによると、日本からは今年2月までにのべ12000人超が派遣された。このうち活動中に死者が出たのは30年前のカンボジアだけ。当時、自衛隊約1200人が道路補修や停戦監視要員として派遣されたほか、全国から集められた警察官75人も現地警察の指導などを担った。派遣された隊員のメモや「厳秘」とされた当時の総括報告を読み返すと、政府の思惑の犠牲になった実態が浮かび上がってくる。(共同通信=島田喜行、三井潔)
▽無線機から悲痛な声「助けてくれ」 平林さんが帰国後にまとめたメモによると、自身が襲撃された後、「UN(国連)職員を攻撃し、殺害する」との情報が流れ、「オランダ軍のエスコートなしでは、外に出られない状況」となった。襲撃に備えカンボジア北西部にあった拠点の周囲に「土のうを積み上げて防護を固め」た。水や食料の確保も困難になった。 約3週間後の5月4日。この日は安全情勢を協議する会合があり、平林さんは、岡山県警から派遣された高田晴行さん=当時(33)=らに久しぶりに会った。「一緒に昼飯を食ってから帰れよ」と声を掛けたが、高田さんらは「護衛のオランダ兵もいるのですぐに戻らなければいけない」と話し、オランダ兵と共に車に乗り込んだ。別の拠点に帰るためだ。 昼過ぎ、平林さんが車列を見送った直後、「ドーン」という砲撃音と銃声が響いたのに続き、「助けてくれ」と救援を求める悲痛な声が無線機に響いた。