30年前、日本の警察官たちが送り込まれたのは「戦地」だった 至近距離で撃たれ「殉職」も カンボジアPKO、政府の思惑の犠牲に
平林さんは、後頭部を撃たれた別の仲間を移送するためヘリに同乗した。同僚の意識はもうろうとしている。「しっかりしろ」と呼び続けた。この同僚は一命を取り留めた。 事件後、隊長の山崎さんは「撤収命令」を出した。隊員たちには「これは隊長命令である」とも伝えた。当時の心境が総括報告に記載されている。 「最悪の事態を迎えて、私の心の中にほんの少し残っていたカンボジアに尽くそうという気持ちは跡形なく消し飛んでしまった」「日本が国際貢献するのはいいが、もはややるべきことは終わった。国連、日本政府とけんかしても全員で帰国しよう」 この考えが変わったのは、高田さんの遺体との対面がきっかけだ。事件翌日、収容袋のファスナーを開けた瞬間、涙があふれ、号泣した。「高田の死を無駄にしない」と思い直し、命令を撤回。地元警察の指導などの任務を続けた。 ▽警察官の赴任先は「戦地」 「文民警察官1人死亡、4人重軽傷」。当時のカンボジア大使、故今川幸雄さんは生前、事件の一報に接した際、「悪い予感が的中した」と思ったと打ち明けた。
前月には国連ボランティア中田厚仁さんがやはりカンボジアで何者かに撃たれて死亡していた。 ポル・ポト派の攻撃が各地で頻発。和平に合意しながら、総選挙への妨害工作を強めていた。選挙をしても敗北濃厚だったためだ。PKOで派遣された自衛隊員第1陣約600人と文民警察官75人が前年秋に到着した直後から、今川さんはポル・ポト派の不穏な動きを把握していた。 自衛隊は「ポト派が皆無」(今川さん)の地域に駐留していた。理由は、日本国内で自衛隊の派遣が憲法違反と反発する声があったためだ。加えて停戦合意などの条件が満たされない場合は撤収もできると定めた「PKO参加5原則」もあった。 今川さんは「自衛隊の安全確保が最優先だった」と吐露。その一方で、各地の文民警察官への目配りは「不十分」と認めた。 警察官が配置された場所の危険性は、山崎さんの総括報告でこう表現されている。「安全な所はどこにもない」。社会の注目が集まった自衛隊は安全確保が優先された一方、安全とされた警察官の赴任先は「戦地」だった。
▽「命の重さを忘れないでいただきたい」 日本は1991年の湾岸戦争で「人的貢献をしない」として米国の一部から批判された。元政府高官は「この時のトラウマが、カンボジアPKOの逆バネになった」と明かし、こう打ち明けた。「冷戦終了後の国際社会で存在感をアピールし、常任理事国入りを目指したかった」 文民警察官はまともな防弾装備も襲撃対処訓練もなく配置された。銃を向けられ、食料や水の確保も困難な中、現場を支えた。平林さんは、活動内容をつづった自身のメモの最後に政府への痛切な訴えを記している。「命の重さを忘れないでいただきたい」