30年前、日本の警察官たちが送り込まれたのは「戦地」だった 至近距離で撃たれ「殉職」も カンボジアPKO、政府の思惑の犠牲に
「高田たちが襲われ、危ない」。平林さんらは救出に向かおうとしたが、別のオランダ兵に制止された。「動くな。待ち伏せされている」 ▽「眼前が真っ暗になった」 襲撃事件の状況は、隊長を務めた元警察官僚山崎裕人さん(70)が残した総括報告が詳しい。帰国後の1993年7月に作成し、政府に提出された。表紙に「厳秘」と記されている。 事件当時、首都プノンペンにいた山崎さんの元に一報が届いたのは同じ日の午後。外国人の同僚からこう伝えられた。「車列が襲撃され、日本文民警察官が死亡したもよう」 「誤報であってほしい」と祈る中、死傷者や被害者の国籍が二転三転するなど、情報が錯綜。約1時間後に「死亡者はタカタらしい」と連絡があった。「頭の中が真っ白になる」。高田さんは岡山県警時代の部下だ。「姿が脳裏に浮かび、涙がどっとあふれてくるのを止めることができなかった」 高田さんのほか4人がけがをしたことも判明。夕刻、銃撃された隊員1人から電話があった。「やられてしまいました」という「悲痛な響きは、今も耳に残っている」。情報はその後も錯綜。3人死亡との連絡を受け「眼前が真っ暗になった」。うち2人は存命だったものの、高田さんは死亡していた。
犯行はやはりポル・ポト派とみられた。彼らは政権を取っていた際、カンボジア国民約200万人を虐殺したとされた。後に和平に合意し、PKOも認めたものの、武装解除には応じていない。カンボジアでは1993年5月に国連主導の選挙が予定されていたが、ポル・ポト派は参加せず、各地で襲撃を繰り返していた。 その後、襲撃の詳しい状況が分かってきた。高田さんたちの車列は6台。機関銃を積んだオランダ軍の先導車が「砲撃を受け」て逃げ、後方の車もUターンして離脱。高田さんら文民警察官とオランダ軍幹部が乗った2台が残され「集中砲火を浴びた」。 武装兵2人が「高田に車から降りるように指示、『ギブアップ、ギブアップ』と叫ぶ高田に、1メートルの至近距離から1発、銃弾を撃ち込んだ」。救出までの2時間、「高田は意識があった」という。 ▽「国連や日本政府とけんかしても全員で帰国しよう」 平林さんが、襲われた同僚たちと対面したのは野戦病院だった。血だらけの仲間が次々と運ばれてくる。高田さんの顔は血の気がなく真っ白。平林さんは思わず叫んだ。「たかたー!」。すると本人の体がぴくっと動いたが、返答はない。「厳しい」。最悪の事態が頭をよぎった。