奈良の大仏を焼いた乱世の梟雄【松永久秀】─悪行ばかりを言い立てられる芸術肌の武将⁉─【知っているようで知らない戦国武将】
人によっては「日本史上最悪の男」ともいわれかねないほど、悪行ばかりが伝わる松永久秀(まつながひさひで)。いわれてみれば、よく知らない彼の人生を紹介する。 戦国時代の武将の中で、松永弾正久秀ほど悪行ばかりを言い立てられた人物は珍しい。簡単にいえば、久秀は京都・西岡の商人出身といわれるが、出自については諸説があって不明というのが正しい。阿波の大名・三好長慶(みよしながよし)に仕えて頭角を現し、信貴山(しぎさん)城を拠点にして北大和に勢力を伸ばした。一説によれば主人である長慶の嫡子・義興(よしおき)を毒殺して権勢を握り、長慶につながる「三好三人衆(岩成友通/いわなりともみち・三好長逸/ながやす・三好政康/まさやす)」と謀って足利13代将軍・義輝(よしてる)を謀殺(ぼうさつ)した。その後は、織田信長さえも手玉に取って、一時期は京都周辺までを一手に握った「戦国の梟雄(きょうゆう/残忍で強い人物)」と呼ばれる。 「弾正(だんじょう)」というのは、律令体制における観察・警察機構であった「弾正台」の役割をいうが平安時代には「検非違使(けびいし)」が創設されてやがて役割を終えたが、役職名だけは残ったものの、有名無実化したのが「弾正」である。戦国時代には、この弾正を自称する武将が増えた。しかし、松永久秀の弾正は自称ではなく、朝廷から「従五位下・弾正小弼」に叙位・叙任されているから、正しい「弾正」であった。それでいながら、京都の警察機構どころか、その警察機構のご厄介になるような所業をのみ行った人物ともいえる。 商人から武将に成り上がったのも、阿波の大名でありながら「戦国時代最初の天下人」といわれた三好長慶に目を掛けられ、側近として重用された。それが勢力を増大し、やがて主人の長慶と肩を並べるほどの存在となっていった。十河一存(そごうかずまさ)・三好義賢(よしかた)・三好義興など長慶の身内が立て続けに死んでいったが、いずれも久秀による毒殺であるとされる。 長慶も失意のうちに没して、久秀は京都を含む畿内の実権を握った。その前に立ちはだかったのが13代将軍・義輝であった。そこで久秀は、三好三人衆と組んで、義輝を二条御所に襲い謀殺した。 だが、やがて仲間割れをした久秀と三人衆は対立し、永禄10年(1567)、奈良・東大寺で合戦に入り、大仏殿を大仏もろともに焼いてしまった。久秀の軍勢が火をつけたとされる。 久秀を中心にした畿内での争いは、織田信長の台頭によって15代将軍・足利義昭(よしあき)を間に置いてまとまっていった。しかし、将軍・義昭にとって兄の敵・久秀は許せない存在であった。ところが、義昭の後見人でもある信長は久秀を許した。実は久秀は、梟雄であると同時に「美的感覚」にも優れていて、芸術家肌の持ち主でもあった。久秀が築いた信貴山城と多聞(たもん)城の造型は日本の建築史に大きな影響を与え、この2城には日本初の天守閣も造られていた(日本初の天守閣は信長ではない)。また、茶の湯についても久秀は通じていて、所蔵していた茶器のうち、名物といわれた「九十九茄子」を信長に差し出すことで、許されたという。信長が茶器に目がないことを知っての機嫌取りである。 久秀はこの後、2度も信長に反旗を翻している。許されたが2度目には信長も怒った。しかし、籠城した久秀に対して名物の茶器「平蜘蛛」を差し出せば許す、と言われたが久秀は「冗談ではない。茶の湯もろくに知らない信長なんぞに名茶器を渡せるか」とばかり、茶器を道連れに爆弾を抱いて爆死した。享年67。梟雄・久秀の小気味よい最期であった。
江宮 隆之