108歳で世界最高齢の理容師、借金返済で奉公、夫の戦死…波乱万丈の人生を支えた最後の“約束”
客を散髪中でも、息子に母乳
'19年12月、東京は空襲が激しくなり、故郷の栃木に疎開することに。暗い山道を子どもの手を引き30キロ。実家に着くころには夜が明けていた。500キロの爆弾が下落合に落ち、店ごと吹き飛ばされたのは、間もなくのこと。 「間一髪というか、疎開を決めるのが少し遅ければ、助からなかった。『偶然は運命の可視化』という言葉が頭をよぎりました」 しばらくは実家で葉タバコ作りなどの仕事を手伝うが、やがて近所の人が「散髪してほしい」と頼んでくるようになる。葉タバコを乾燥させる小屋に臨時の理容室をつくり、客を迎えることにした。現金がないため、畑でとれた野菜や果物が代金がわり。子育てをしながらの散髪は、時間との闘いだったという。 「英政は乳離れが遅い子でね。おっぱいをせがむので、私の父が『シズ、飲ませろ』と。お客さんに顔そりのタオルをかけて目隠ししているうちに授乳していました。それを息子は覚えていたんでしょう。しゃべれるようになって、お腹がすくと『シズ、飲ませろ』と言うようになって(笑)」 近所の同業者から「もぐり床屋」などと陰口を叩かれ、根も葉もない噂を流される嫌がらせもたびたび受けた。 「免許証が空襲で焼けたので掲示せずに仕事をしていたんですよ。客を取られたと思ったんでしょうね。だけど、ケンカしても仕方ないからね。じっと耐えてました。みんな生きるのに大変なときでね。あちらにはあちらの事情があるでしょうから」
板切れを手に泣き叫んだ日
戦争が終わり、シツイさんは夫の帰りを待ち続けた。だが、一向に戻ってこない。終戦から8年がたった'53年3月のこと、国から一通の郵便物が届く。封を開けると、 《箱石二郎 満州吉林省虎頭に於いて戦死 1945年8月19日》 と書かれているではないか。 「突然のことで、何がなんだかわからない状態でした」 長男の英政さんは言う。 「母は父の死を信じられない様子でした。しかも死んだのが終戦の日から4日後でしょ。国から連絡が届いていれば死なずにすんだ。僕は怒りが抑えられず、厚生省(当時)に長い手紙を書きました。“生きたまま返せ!”と」 指定された場所に息子と向かうと、白い布で包まれた箱を渡された。遺骨が入っていると思い込んでいた。ところが葬儀の日、タクシーに乗ろうとして英政さんは躓きそうになり、はずみで箱の中がカラカラと妙な音を立てた。 英政さんが回想する。 「えらく軽い音だと思って中を見ると、入っていたのは板切れ1枚っきり。俗名と死んだ年月日が書かれただけの。悔しくて腹が立って思わず板を地面に叩きつけました。“これが遺骨かよ。いたっぱち(板切れ)だよ”と」 泣き叫ぶ息子の傍らで、シツイさんは声も出すことができなかった。