「スポーツは楽しくて心身を健康にしてくれるものであってほしい」怪我と重圧に耐え続けた元バレーボール日本代表・大山加奈さんが感じたスポーツの価値と日々を支える食習慣
――小川先生らしいアプローチが奏功し、高校時代に成果を挙げて、2003年に東レアローズ入り。同年のワールドカップで大活躍して「メグカナブーム」で日本中を湧かせました。 あのワールドカップはコートに立っていて本当に楽しかったですね。自分のプレーが通用する部分もありましたし、お客さんが試合を重ねるごとに増えていきましたし。最初はアイドルグループの応援うちわばっかりだったのが、徐々に私たちの名前変わっていったんですよ。それにすごく感動したし、「それだけのみなさんにバレーボールの面白さが伝わっているのかな」と思えて嬉しかった。重圧とか重荷も感じませんでしたし、本当に多くの人が見て、応援してくれているだけで純粋に喜んでいましたね。 ――未来への希望に満ち触れていた大山さんでしたが、2004年アテネ五輪が近づくにつれて徐々に顔が曇っていく印象がありました。 腰がとにかく悪くて、ワールドカップが終わった後のリーグでも動けないくらいになってしまったんです。セミファイナルという大事な試合に出られない状態まで陥ったのに、そのまま代表に行っていました。それが2004年春のオリンピック直前の頃には練習がかなりきつくて、ケガでパフォーマンスも出せない。でもメンバー選考は当落選上でしたし、やらないといけない。そういう難しい状況のなか毎日すごく怒られて、頑張れば頑張るほど腰が痛くなる、パフォーマンスが落ちる…という悪循環になってしまった。本当に辛い状況でしたね。 結局、5月のオリンピック予選もあまりコートに立つこともできずに終わってしまった。12人に残るか残らないかというギリギリの状況で、本当にキツかったし、いろんな面で追い込まれていましたね。 ――それでもアテネ五輪はメンバー入りし、初めて大舞台に立ちました。 正直、ほとんど記憶がなくて、もう余裕もなくていっぱいいっぱいでした(苦笑)。記憶に残ってるのは、初戦・ブラジル戦でテンさん(竹下佳江=ヴィクトリーナィ姫路代表)の1本目のサーブがアウトになったこと。「テンさんがこんなミスをするのか」と思ったんですよね。もう1つは、準々決勝・中国戦の最後に相手のジャンプサーブが自分のところに飛んできて、それを弾いて、オリンピックが終わったこと。この最初と最後の2本は鮮明に覚えているんですけど、それ以外はポッカリ空いている感覚です。 せっかくのオリンピックなので本当はもっと楽しみたかったですね。記憶がないのはすごく悲しいし、選手村の写真もないし、他の競技の選手と交流もなかったんで、もったいないオリンピックになってしまった。 ――悔しかったアテネ五輪の後もケガで苦しみました。 アテネの後、1回バレーボールから離れたんです。腰の状況がよくなかったんで、リハビリに専念したんです。でも国際大会が国内で開かれると招集されて、コンディションが中途半端なまま代表行って、また離脱することの繰り返しで、あれはすごく後悔してます。 「代表に来てほしい」と呼ばれると嬉しくて、「北京オリンピックには行きたい」という思いも強かったんで、無理をしてしまいました。しっかりと心も体も万全な準備ができてから行っていれば、違う未来だったんじゃないかなという思いもある。やっぱり中途半端に競技復帰するのはよくないなと痛感してます。