侵攻のきっかけはすれ違い?“元”は友好求め文書送付、日本は返書出さず 750年目に振り返る「文永の役」
【文永の役から750年㊤】
1274年10月、現在の暦に合わせれば11月にモンゴル民族の大帝国「元」と、その属国「高麗」の連合軍が侵攻してきた。長崎・対馬、壱岐、そして福岡・博多が戦場となった「文永の役」だ。7年後の「弘安の役」と合わせて「元寇(げんこう)」と呼ばれる。その後の鎌倉幕府崩壊の引き金となった事件は、はっきりとしていないことも多い。なぜ攻め込んできたのか、戦いの詳細はどうだったのか? 750年の節目にあらためて振り返ってみた。 【写真】元軍襲来の様子を描いた絵巻物や、実際に使われた砲弾「てつはう」などが展示された企画展 侵攻6年前の1268年、朝鮮半島の高麗の使節団が大宰府に到着している。この時高麗はモンゴル帝国の軍門に下っており、彼らはモンゴル帝国皇帝フビライの国書を携えていた。国書は鎌倉に送られ、幕府は外交を担当する朝廷に国書を回送した。これがモンゴル帝国と日本の公式な接触の始まりとなる。 内容は交易と親睦を求めるものだった。一方、文末には「至用兵、夫孰所好(兵を用いることになるのを誰が好もうか)」と武力行使を示唆する言葉が記されていた。ただ舩田善之・広島大准教授(モンゴル史)によると、文末に脅し文句を付けるのはモンゴルの国書では一般的な書式だという。 モンゴル帝国が日本と通交を求めた理由は何だったのか。当時、モンゴル帝国は中国の北半分を支配し、南の漢民族国家・南宋と争っていた。九州大名誉教授の佐伯弘次さん(日本中世史)は「宋攻略の一環として日本を味方につけ、モンゴル、高麗、日本という連合をつくろうというのがこの時点での狙い。友好が本音」と話す。 元・高麗軍が襲来することになる博多は、当時硫黄の輸出港で、輸出先は南宋だった。硫黄交易に詳しい山内晋次・神戸女子大教授によると、硫黄から火薬を作る製法、火薬兵器は宋王朝の機密事項だったという。ただ、舩田さんが「モンゴル帝国は中国北部を占領した時点で火薬の秘密は知っていた」と話すように、その機密はモンゴル側に漏れていた可能性も否定できない。その状況を踏まえ、九州大名誉教授の服部英雄さんは火薬の原料となる硫黄を南宋に売り渡さないようにさせることが目的だったと考える。 ∂∂ 当時日本は海外との交易は盛んに行っていた。しかし、政治的な国交を結ぶことは平安時代前期以降、400年にわたって行っていなかった。そのためだろうか、フビライの国書に日本は返書を出さなかった。モンゴル側は1268年~72年の間に計5回にわたり使者を送るが、日本は無視し続けた。 返書は出さなかったが、対策は講じた。国書にあった武力行使を示唆する文言のためだ。鎌倉幕府はモンゴルの侵攻が近いと判断し、防衛体制を整える。モンゴル帝国が国号を「元」とした71年、九州に所領を持つ御家人に九州北部の防衛体制を強化させる「異国警固番役」を始めた。 対するフビライは73年、日本遠征を決定する。ただ当時の元の最重要課題は日本を支配下に置くことではなく、南宋攻略だった。そんな中での軍事力行使の狙いについて伊藤幸司・九州大教授(日本中世史)は日本を脅すと同時に軍事力の程度を調べる「威嚇偵察」だと考える。舩田さんは「フビライは自分が一番偉いと思っていたので、返答を全くしない日本は無礼な存在だった」とした上で「海を越えて攻めることはできることを示して威嚇するためだったのではないか。もちろん征服できればそれにこしたことはないという考えもあった」とする。 フビライの決定を受けて74年10月3日(旧暦)に元、高麗、そして元の支配下にあった女真族による連合軍が日本に向けて朝鮮半島南部の合浦を出港した。その規模については史料によって軍船は450~900隻、人員は1万5千~3万9700人と諸説ある。連合軍は5日に対馬に現れ、対馬在住の武士のリーダー、宗資国(そうすけくに)(助国とも)率いる80余騎が応戦したとされる。 (古賀英毅)