紫式部は藤原道長を嫌っていた? 道長のアプローチをあしらった「切ない理由」
■思い人が亡くなったのに、悪ふざけをした道長 和歌のやりとりは、『紫式部日記』の中でもかなり後半に記されているところからみれば、第一皇子の敦康親王(後一条天皇)が生まれた1008年の後、第三皇子の敦良親王(後朱雀天皇)が生まれた1009年(前年説もある)あたりの話だと考えられそうだ。 この1009年といえば、紫式部の「思い人」であった具平親王が亡くなった年でもある。夏の暑い盛りだったと思われるが、前述の道長が戸を叩いた云々の歌を詠んだのも、おそらくは夏。 もし親王の死の方が先だったとすれば、紫式部にとって道長のこのおふざけは、実に腹立たしいものだったに違いない。自らの「思い人」が亡くなって沈み込む紫式部に、その思いを知ってか知らでか、道長が悪ふざけをしかけてきた訳だから、紫式部にしてみれば、殴ってやりたいほどの思いだったというべきだろう。 この歌が詠まれた時期が明確ではないので何とも明言し難いが、もし筆者の推測通りであれば、おふざけも度が過ぎている。 ■紫式部が道長を嫌った理由 ここで振り返らなければならないのが、紫式部の役割である。彰子の第一皇子が生まれたことで、実のところ紫式部の役目は、すでに終わっていた。『源氏物語』によって一条天皇を彰子の元に通わせるというのが、道長にとっての目的だったからである。 さらに、具平親王の娘・隆姫女王と道長の長男・頼通との縁談もまとまった。その仲立ちとしての紫式部の役目も終えていたことになる。もはやこの時点で、道長にとって紫式部は不要なものとなっていたのだ。そんな道長の思惑も、勘の良い紫式部には手に取るように分かっていたに違いない。 同時にこのころ、道長と娘・彰子の間にも、不穏な空気が漂うようになっていた。父・道長が、夫である一条天皇をないがしろにするかのような振る舞いを見せはじめたからである。 そればかりか、養母として育てていた定子の子・敦康親王の立太子をも道長が阻んだことに、怒りをあらわにしていた。彰子を慕う紫式部にとっても、権勢欲に取り憑かれはじめた道長に嫌悪感を抱くようになっていたに違いない。 ■紫式部との約束を破りまくっていた道長 また、紫式部が彰子に仕える条件の一つとしていた(少なくとも紫式部はそう思っていた)弟(あるいは兄)・惟規の任官の依頼も、道長は実行しなかった。約束を破った道長に対して、不信感を募らせていたことも想像に難くない。 となれば、紫式部にとって道長は、はもはや敬うべき存在ではなくなっていたのである。このような状況を鑑みれば、仮に道長からのアプローチが本気だったとしても、紫式部には、とても応じられるものではなかったはず。 紫式部が道長の妾だったとは、とても信じられない、いや、信じたくないお話なのだ。人付き合いは下手だったとはいえ、心意気は真摯だった紫式部。それを慮れば、権勢欲に駆られた男などに、なびいて欲しくないのである。 画像出典:ColBase (https://colbase.nich.go.jp)
藤井勝彦