トルストイ「戦争と平和」に胸打たれた特攻隊長 遺書の最後は「元気に朗らかに仲よく」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#68
元気に朗らかに仲よく
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> 今日夕食のとき、榎本氏が入道頭をして襟の破れたボロボロのシャツを着て喧嘩の後のような格好で酔っぱらい、はげ頭をして、莫迦に色っぽい小唄など歌ったり、詩吟を唸ったりしていたのを思い出すと可笑しくてたまらない。 一寝入りしようとするが、やかましくてなかなかねむれない。吾々の日常生活に於て起滅する意識は死の意識と本質に於て同じものであるようだ。吾々の生活はどれをみても一生に一度きりないものであることに変わりはない。 どこまで書いても限りがないので夜も遅いからこれで止める。 元気に朗らかに仲よく、皆様、母上様。 〈写真:石垣島事件の法廷 前列一番右が榎本宗応中尉(米国立公文書館所蔵)〉
執行は午前0時32分
国立公文書館に、英文の石垣島事件の処刑報告書があった。日付は、1950年4月7日午前11時。翌朝に作られた文書だ。 それによると、幕田大尉の絞首刑が執行されたのは、午前0時32分。司令の井上乙彦大佐と、副長の井上勝太郎大尉、幕田大尉と、田口泰正少尉の4人が同時に執行された。そして23分後の0時55分に、榎本宗応中尉、成迫忠邦上等兵曹、藤中松雄一等兵曹の3人が執行された。新聞にも掲載されたようだ。 これが、スガモプリズン最後の処刑だったー。 (エピソード69に続く) *本エピソードは第68話です。
連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。 筆者:大村由紀子 RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社 司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。