「先生、歌ってくださいよ!」…落ち着かない認知症の元東大教授を救った意外すぎる「天の声」
老夫婦のかつての青春
「アメイジング・グレイス」は、奴隷船の船長から牧師に転じたジョン・ニュートンが作詞した讃美歌です。 日本でもよく知られていますが、私たちにはとくに思い出深い曲でした。 若いころには日曜の礼拝でよく歌ったものです。 アメリカで暮らしたときもそうでした。彼の地でも最も親しまれている讃美歌のひとつだそうで、教会で耳にし、またよく歌いました。 晋が東大を退く前、私たちは唐沢寿明主演のテレビドラマ「白い巨塔」を必ずふたりで見ていましたが、そのエンディング曲は、アメイジング・グレイスでした。 交通事故でとりやめにしましたが、次男の結婚式で「歌おう」とふたりで相談していたこともあります。 その後はしばらく歌うこともなかったのですが、沖縄を離れ栃木に戻ってから、また親しむようになったのです。
美しい讃美歌
私たちは、自宅近くの川辺を散歩するのが日課でした。 ある夕方。どこまでも広がる晴天が気持ちのいい日のこと。 歩きながら、私はふと、彼に声をかけました。 「晋さん、アメイジング・グレイスを歌おうか」 讃美歌は、神様に届くよう、大きな声で歌うものです。 Amazing grace…… (われをもすくいし くしきめぐみ……) 晋の口から、冒頭の歌詞が流れ出しました。 でも、そのあとが続かず、ハミングのようにして歌い続けました。 われをもすくいし くしきめぐみ まよいし身もいま たちかえりぬ 英語も日本語も堪能だった晋。その口からもう、歌詞は出てきません。 それでも晋は、ハミングのようにして歌い続けます。 私も歌います。 ふたりで歌いながら歩いてみました。
歌を遮ることは誰にもできない
野外で、しかも川辺を、大声で歌いながら歩くのは、なんとも心地よい。 ふたりきりの生活はときに息苦しく、介助や見守りなど、気をもむことばかりです。 でも、この瞬間だけは、鬱屈した思いも吹き飛んでいく。 夕日を浴びながら、晋は朗々と歌い続けます。 言葉を失っても歌は残り、神様にたちかえることができた。 あとはその恵みにお任せするのみ。 そんな思いを込めて歌っていたのかもしれません。 『肺炎、要介護5、入院、そしてついに…認知症で退いた元東大教授が次々とたどる「険しすぎる下り坂」』へ続く
若井 克子