現金3400万を残して孤独死した女性、震災で亡くなったフィリピン人…“名もなき人”の足跡を取材した現役記者が語る
武田 当時は、裁判担当から持ち場を持たず自分でネタを探す遊軍記者になって2ヶ月くらい経った頃でした。三浦さんがおっしゃる通り自動的に色々なネタが降ってくる環境から、そうじゃないところに解き放たれて、若かったこともあり「どうしようかな」と戸惑いを感じていました。僕はパパッと動けない人間で、ちょっと考えてしまう。それで、もともと関心があった行旅死亡人についてチェックをしていたら、3400万円という高額なお金を持ちながら、身元不明で亡くなっている人がいる、その事実に興味を持ったわけです。 三浦 それでどんどん取材していき、武田さんが感じる「驚き」が物語を進めていく。一番驚きを感じたのは、どういう所でしたか。 武田 やっぱり、最初に弁護士の方から見せてもらった写真が、とても心に残ったんです。女性自身の写真と、彼女が大切にしていた、大きな犬のぬいぐるみの写真。「もしかしたら、調べたら、手を伸ばせば届くんじゃないか」というリアルな感じがありました。 三浦 この本って入口と出口が全然違うじゃないですか。最初の入口は「3400万円のお金が残っていました」というところ。その情報だけだったらお金持ちのお子さんが亡くなったのかなとか、犯罪絡みかなとか、そういう想像・仮説が立つと思うんです。そこから、舞台も兵庫から広島に移っていき、日本の近現代の歴史も関わってきて……。書籍で一番大事なのはクライマックスだと僕は考えています。「いいものを読んだな」という読後感が残る本が一番いい。『ある行旅死亡人の物語』には、まさにそんな読後感を持ちました。また、事実をもとにして、結論が見えない物語を書く、これがいかに難しいことかも痛感しました。今、多くのノンフィクションは、「多分こういう話だろうな」と思うところへ結論が落ち着いていくんですよね。それに対して、『ある行旅死亡人の物語』は全く結末が見えない。
2つの旅を作品に込める
武田 ありがとうございます。『涙にも国籍はあるのでしょうか』についても、震災で亡くなった外国人の方について、実際どれぐらいの確度で身元に辿りつけるのかっていうハードルがありましたよね。 三浦 取材対象者の住所、連絡先が分からないのは記者にとっては致命的ですよね。事件や取材対象者の近所を回って取材することを「地取り」といいますが、東北の被災地の場合、そもそも津波で流されて集落が残ってないから地取りができない。当時の町内会長や行政区長に取材に行っても、「住んでたかもしれないけど、わかんねぇな」っていう回答がほとんどでした。 今年の能登半島の地震や阪神淡路大震災と比べて、東日本大震災の大きな特徴は「遺体がない」ということなんです。遺体があれば、この人が誰なのか警察は突き止めないといけない。それで被害者数がわかる。遺体がないと、そもそも捜査が始まらない。外国人の方の場合、届け出もない人もいる。なので、外国人の死亡者数が日本では制度からすっぽりと落ちてしまっていたんですね。行政を取材しても「外国人の方が何人流されているか、わからないんですよね……」って言われる。いやいや、それでいいのかって、そういう疑問も出てくるわけです。 別の問題もあります。本にも少し書いたのですが、たとえば在日韓国・朝鮮籍の方は普段は通称名を使っていて、韓国や朝鮮籍での名前による取材はお断りしたいっていう方もいらっしゃる。そうでなくても、被災地では、震災報道についてはもうそっとしておいてほしいという人や、報道に対するジレンマというか嫌悪感を抱いている人もいる。それは事件や事故の遺族取材と同じですよね。もちろん、ずっと現地で取材を続け、しっかりと信頼関係を築いているメディアの方もいますけれど、ほとんどの記者は3月11日に悲しそうな顔をしてわーっと現地に押し寄せ、次の日には去っていく。被災地の人はそれをこの13年間ずっと見させられているわけですから。 武田 被災地の取材は年々難しくなっていますか?