食と音楽で「誰も見たことない施設を」 恩返しを誓う福島の和太鼓奏者
福島県川俣町出身の和太鼓奏者、高野樹(いつき)さん(25)は2024年8月、町の中心部に空いていた3階建ての雑居ビルを借りて、複合施設「Kawamata―BASE(カワマタベース)」をオープンした。江戸時代から絹織物で栄えた旧街道沿いも、今では人影はまばらだ。ここに「誰も見たことのない施設を造って、人の流れを変えたい」と意気込んでいる。 仲間たちとDIY(自作)で改装。1階は名物の川俣シャモが味わえるカフェバーで、高野さんが自ら腕を振るう。「川俣シャモでこれだけ大盛りのチキンステーキが食べられるのは全国でもこの店だけです」と胸を張る。福島市のカフェに弟子入りしてコーヒーのハンドドリップも学んだ。 2階は屋外からの階段で上り、入り口にはスナックだった名残のレトロな電飾看板が残り、カラオケ用に防音されている。自身は和太鼓を、そして川俣出身の共同創業者で東京でITベンチャーを経営している都築魁(すぐる)さん(30)はドラムを演奏しているため、音楽スタジオにリノベーションすると、おのずと決まった。 地元では毎年秋に、国内最大級のフォルクローレ音楽祭「コスキン・エン・ハポン」が開催されており、その練習で社会人が頻繁に利用している。「コスキンがなければ私たちも『音楽スタジオを作ろう』という発想にはならなかった。地元出身だからこそ、地元のニーズは分かります」と2人。「川俣にはシルク、シャモ、コスキンと全国に誇れる要素が三つもある。これを発信していきたい」 高野さんは町の中心部から南東に約10キロの山間部、山木屋地区出身だ。地元で盛んに活動していた和太鼓グループ「山木屋太鼓」に山木屋小1年の時から入り、現在も演奏活動に打ち込んでいる。 小学校卒業式の練習中だった11年3月11日、激しい揺れに襲われた。東京電力福島第1原発から40キロ離れていたが、山木屋中に入学した直後の4月22日に暗転した。年間累積放射線量が20ミリシーベルトを超える恐れがある計画的避難区域に、川俣町では山木屋地区だけ指定されたのだ。 ある朝、登校すると担任教師から突然「今日から学校の場所が変わります」と告げられ、学校ごと町中心部の川俣南小校舎に避難した。一家も中心部に移ったが「訳が分からず、ただただ混乱した」。落ち着けず、福島市にも転居した時期もあった。そんな中、地域の人たちから生活情報を教えてもらったり、物資を分けてもらったりと、生き延びるための支援をもらった。「その恩返しをしたい」と強く思うようになった。 福島大で被災地の復興まちづくりを研究し、卒業論文では17年3月に避難指示が解除された山木屋の将来像を模索した。卒業後は町職員に。2年間勤める中で「にぎわいを失いつつある町なかに拠点となるカフェを作りたい」との思いが強まり退職した。23年5月、若者の創業を支援する施設「Fukushima―BASE」(福島市本町)を訪れ、同郷の先輩起業家、都築さんと出会って意気投合。川俣での起業に向けて一気に突き進んだ。 震災から14年近くたった。爪痕はいまだ深く残っていると感じる。「このビルはまだ部屋が空いているし、屋上もある。ヘッドスパ、古本喫茶、シアタールーム、テントサウナ……。アイデアはいっぱいあり、面白いコンテンツを積み重ねて、お年寄りから若者までが集まれる川俣のメインストリートを復活させたい」【錦織祐一】