独りで戦い、生き抜いた――〝安楽死〟した日本人女性 病による耐え難い苦痛と、頼ることをできなくした家庭環境
家は「戦場だった」 暴力振るわれ、家事も担った幼少期
1958年に都内で生まれた迎田さんは、小学生の頃、両親は不仲で、母は家に不倫相手の男性を頻繁に連れ込み、父の不在時には泊まらせることもあったという。その男性に暴力を振るわれることもあったが、母はただ見ているだけで、かばってくれなかったと話す。 中学生の時、両親は離婚し、母親に引き取られた。かまってほしい気持ちから「生きがいが見つからない」などと相談すれば、母は「死ぬんだったら、お金がかかるから電車に飛び込むのだけはやめてくれ」と返すような人だったという。炊事や洗濯の家事は迎田さんが行っていた。 「家庭に居場所がなかった」迎田さんにとって、テレビで洋画や紀行番組を見て海外の文化に触れることが、唯一、心を明るくする時間だった。将来は海外で仕事することを夢見ており、家を出て自立したときのことを「戦場から逃れられた」と振り返る。
待望の子ども授かるも流産、そして離婚
英語の専門学校を卒業後、翻訳など海外に関われる仕事を中心に生計を立てた。30代になって、日本人の男性と結婚。荒んだ幼少期だったからこそ、温かい家庭と子どもをもつことを強く望んだという。そして、30代後半で待望の子どもを授かった。 「なかなか子どもができなかったので、妊娠したときは本当に嬉しかった。小さな子どもが大好きだったから。私は幼少期が辛かったから、そうならないように愛情をかけて育てたいと思った」 しかし、我が子をその胸に抱く夢は叶わず、流産してしまう。 さらに、流産したときの手術の経過が悪く、医師に「子どもを産めない体になった」と告げられた。 迎田さんはその後、夫と離婚した。
懸命に前を向いたが… 難病で「人生壊れた」
念願だった子どもを諦め、離婚も経験した迎田さんだが、それでも前を向こうと懸命に努力した。海外で日本語の講師をするなど、憧れだったヨーロッパと行き来しながら、幼い頃からの夢を切り拓いていったのだ。 そして、航空会社のフライトエンジニアをしていた1人のフランス人男性と出会い、10年以上の交際期間を経て、結婚の約束も決まった。 そんな矢先に、パーキンソン病を発症してしまったのだ。婚約者は日本にまで来て一緒に暮らす道を探ってくれたが、彼自身も肺の難病を患っていて、「難病患者同士が介護することは無理だ」との結論に達し、婚約は破談になったという。 「当時の夢は新しい家庭をもつこと、自分の居場所を見つけること。難病を患ってしまい、今までの人生で築き上げてきたものが壊れたなと思った」