「17歳2カ月、じつはNPB最年少本塁打」金田正一は400勝以外の記録もスゴい…“デビュー前報道で敵意”長嶋茂雄でも王貞治でもない天敵とは
高校中退でスワローズ…すでに17歳で184cm
そもそも金田正一は、どうしてこんな大記録を成し遂げられたのか? キャリアを振り返りながら、詳しく調べてみよう。 金田は1933年8月1日、愛知県生まれ。享栄商に進むが3年に進学する直前に、国鉄の西垣徳雄監督にスカウトされ、高校中退で国鉄スワローズに入団する。1950年は、高校進学率は42.5%に過ぎず、中卒で働く若者の方が多かった。また中途退学も珍しくなかった。たとえばプロ野球界でも、金田より4学年下の馬場正平(のちのジャイアント馬場)は、1955年、高校2年で中退し、巨人に入団している。 1950年はプロ野球がセ・パ2リーグに分立した年だが、国鉄はこの年にセントラル・リーグに加入。大学や社会人の選手も獲得したが、国鉄(鉄道管理局)野球部の選手も試合に出るなど、選手層の薄さは否めなかった。ドラフト制度のない時代、大卒、高卒の有名選手は他球団との争奪戦で負けることも多く、高校在学中の金田にアプローチしたのだ。 17歳の金田の身長はすでに184cm、当時のプロ野球選手の平均身長が170cm少しだから、ずば抜けた長身だった。左腕から投げ下ろす速球には威力があった。
14年連続20勝という空前の記録も
金田は1950年のペナントレースが始まってから国鉄スワローズに入団。8月23日、松山市営球場で行われた広島戦に3番手として初登板するが、負け投手。以後、先発と救援で投げたが1カ月以上も勝ち星がなく0勝4敗となったが、10月1日、甲子園球場で行われた大洋戦で9回を完投してプロ9試合目で初勝利を挙げた。 ここから金田は頭角を現し、最終的には8勝12敗、164.2回、防御率3.93の成績を挙げた。この年の規定投球回数は180回と設定されたので規定投球回には達せず。なお金田は打者としても非凡で、投手として最多の通算38本塁打を打っているが、この年10月6日の西日本戦で緒方俊明からプロ第1号ホームランを打った。このとき17歳2カ月。今に至るもこれがNPBの本塁打の最年少記録となっている。2カ月で金田が8勝を挙げたこともあり、国鉄は最下位の8位になることをまぬかれ、7位となった。 翌年から、金田正一は絶対的なエースとなる。1951年は18歳で22勝21敗、リーグ1位の350回を投げ最多の233奪三振、防御率2.83(7位)を記録する。また9月5日の阪神戦では史上最年少の18歳1カ月でノーヒットノーランを達成(1957年8月21日の中日戦では完全試合を達成)。金田はこの1951年から1964年まで「14年連続20勝」という空前の記録を達成する。 この間、最多勝を2回、1958年には31勝を挙げて「セ・リーグ最後の30勝投手」となり、最多奪三振を10回、防御率1位を2回獲得している。
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