半径80kmが無人の“冬のアラスカ”で突然の失神…現地民から「日本のトナカイ」と畏敬される登山家を襲った“唯一の想定外”「あの時は1つだけいつもと違うことを…」
この登山でひとつだけ、栗秋はいつもと違うことをしていた
それにしても不可解な失神と不調はなんだったんだろうか。 下山して帰国した後、この経験したことのない不調が何に起因していたのか、いろいろ調べるにつれて栗秋は徐々に理解していった。 この登山でひとつだけ、栗秋はいつもと違うことをしていた。それは「高効率クッカー」の使用である。高効率クッカーとは、底面にヒダを設けることで熱の拡散を抑え、コンロの熱をロスなく伝える構造をした登山用鍋のこと。一般的な鍋よりも少ない燃料で早く湯を沸かすことができるため、登山の現場で人気を集めるようになっていた。 長期間山に入る栗秋にとって、携行する荷物は1グラムでも少なくしたい。燃料消費の少ないこの鍋ならば、これまでより少ない燃料で登山を完遂できるのではないか。そう考えて新たに導入したのだった。 ところが落とし穴があった。 高効率クッカーは、正しい使い方をしないと一酸化炭素が発生するというのだ。火元を覆うことで熱効率をよくしている構造上、適切に空気が送られないと不完全燃焼を起こしやすい。そのため、メーカーはコンロと鍋をセットで設計して不完全燃焼が起こらない工夫をしているのだが、高効率クッカーの使用を想定していないコンロと組み合わせて使うと、一酸化炭素中毒のおそれが高まってしまう。 栗秋はまさにこの組み合わせで使っていた。別の登山家がまったく同じコンロと鍋の組み合わせで、一酸化炭素中毒を起こしていたことも登山後に知った。
高効率クッカーは登山だけで使われているわけではない。構造こそさまざまであるものの、同じ狙いをもって作られた家庭用の鍋やフライパンもあり、2015年には行政法人の製品評価技術基盤機構(NITE)が警告を発している。それによると、一般的な鍋と比べて数十倍の一酸化炭素が発生し、死亡事故も起こっているという。 今でこそ理解が進んでいる部分もあるが、2014年の時点ではこのことはあまり知られていなかった。栗秋は反省した。自分の体に何が起こったのか、正確に証明することはできないが、さまざまな症状と状況からして、一酸化炭素中毒だった可能性が高いのだろう。 娘の蒼子が「お父さん、死んだ」と言ったということにも不思議な運命を感じた。2年前の2012年にも、同じハンターに登っていたとき、蒼子が「やまのぼり終わったよ」と突然言い出したことがあったという。栗秋は帰国後に話を聞き、日誌を見返したところ、まさにその日が下山を決意した日だったのだ。